NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第333回 いじめ自殺

By , 2013年8月16日 10:00 AM

引きこもりの社会的背景の一つは過度の受験競争だと思っていた。競争批判というのは20年くらい前にも言われていた。その頃は競争して順位を付けることにも批判がされていた。運動会で競走しても1等・2等などの順位を付けることが批判され、すべての子どもに参加平等が与えられた。私はこれは行きすぎた「競争批判」だと思っていた。だから、今でも受験競争自体が引きこもりを生み出すとは考えない。では何がいけないのか。受験勉強そのものがいけないはずはない。英語や数学を勉強して成績を付けたり、1位・2位などと順位を付けるのがいけないのではない。5科目・9科目などの科目を合計して、総合順位を付けるのがおかしい。さらに言えば、その総合順位がその人の人格を含む優劣のように判断している受験システムそのものがおかしいのではないか。その総合点数から偏差値なる指標を編み出し、その人の「価値」であるかのように意識的に誤用し始めた受検業界に大きな罪があると思う。いずれにしても競争によって合否を判定しようとする受験システムに問題がある。
子ども教育の中の大きな問題である「いじめ」の問題も過度な競争によるシステムが生み出したものと思われる。いじめる側の子どもも、競争評価の中で、人格が劣っていると評価されるストレスの中で、自分たちよりも劣位にある相手を作り出していじめることにより救済されようとする心理構造があるのではないか。もちろん、だからと言っていじめが正当化されるものではない。いじめが最も非難されるべきだと思うのはやはり衆を頼み少数の弱者に立ち向かう点だろう。もしいじめに正当性があるのなら、一人でも逆に多数に対して立ち向かっていけばよいのであって、この場合、競争システムを支えている学校や社会、あるいは教師に対抗すべきだと思う。ところが、こうした自分より強固だと思うものには反抗しえず、自分より弱者を見つけ出し、しかも集団で圧力を加えようとするのは卑怯だと思う。
いじめにも、殴る蹴るなどの物理的暴力の他に、悪口雑言などの言葉による暴力、シカと(無視)仲間はずれ等の態度による暴力、金銭を脅し取るなどの犯罪などもある。言葉による暴力の中にも口頭によるものの他に最近では、ツィッターやその他のSNSを利用したいじめも増加しているようだ。暴力や言葉による直接的な攻撃の場合、目の前にいる相手に対する攻撃の場合、当然反撃される可能性もあるが仲間外れやSNS攻撃の場合、相手は目の前におらず、反撃される可能性も低い。いじめの手段はだんだんと巧妙さを増して、それだけ卑劣度を増している。いじめそのものが卑劣な行為であるから、方法も益々卑劣度を増していく。戦争が残虐な行為であるから、時代が経つにつれその手段も残虐度が増すということに似ている。
いじめが卑劣な行為であり、憎むべき行為であることは分かった。いじめる側だけでなく、いじめを傍観する人たちにも大いなる非がある。誰もが知っているようにいじめる人たちは例えば番長やケンカ早い人のようにケンカの強い人ではない。いじめを目撃した人たちが注意をすれば今度は自分たちがいじめられるのではないだろうかと、いじめをやめてしまうだろう。いじめには、いじめる人、いじめを傍観する人、いじめに気付かない教師や親など、これに関わる人たちすべてに責任があると思う。中でも私が一番悪いと思うのは、いじめられて自殺してしまう人で、遺書を残して自殺するというのが最悪である。自殺にはいじめ自殺に限らず様々な事例がある。現代日本では、年間3万を超える自殺件数があり、中高年に病苦を苦にした自殺、貧困苦による自殺が多いという。また、武士の時代には切腹という自殺が半ば合法化されていた。主君に対する謝罪や、名誉を傷つけられたことに対する抗議も含まれたようである。自殺行為であるとともに,主命に背いたことに対する処罰の意味もあったようである。「武士道」という美名のもとに行われた非道な殺人である。西欧にも自殺はあるが、キリスト教は自殺を神の名において禁じており、我が国のように自殺を美化するようなことは少ない。キリスト教に限らず、日本仏教でも自殺は称賛されない。宗教弾圧に対する抗議以外にあまり耳にしない。
いじめを受けたと言っても、被害は悪口を言われたとかつつかれたりしたという程度が多い。それ自体が自殺したくなる理由にはならないはずである。精神的な抑圧を受け続けて「生きて行くのが嫌になった」というのは良く聞くが、これも本人が自ら追い込んで無理やり理由にしたようだ。良く聞くのがいじめっ子たちに「死ね」と言われたというものだ。遺書に「死ねと言われた」から死ぬというのは、心理的に追い込まれた上での、自殺動機と思われるが、単純には理解しがたい。「A君に死ねと言われた。」「B君には『死ね、死ね』と二度言われた」など問書に書いていたと聞くと、この人は「死ね」と言われたのが自殺の理由で、B君はA君の倍悪いと告発しているようである。つまり「死ね」と言われただけでなく、犯人を告発しようとするのが自殺の理由のように見えるのである。
「死ね」と言われたから「死のう」としている。これも私には分からない。しかしその「死ね」と言われた人にA君とB君の違いがある。B君をより多く「罰しよう」としている。どこにその正当性や正義があるのか?「死ね」と言われたから「死ぬ」と言う出発点の「錯誤」にすべての、誤りの原点がある。一番大事なはずの判断の原点を曖昧にして処罰感情にかまけている。「死ぬ」ことを前提にしてしまったアホウがどんなことを考えようとかまわないが、恐らくは「死ぬ」ことを思いとどまるべき最期の時に、見当違いのことに時間を費やしていることにいらだちを感じるのである。
言うまでもなく、いじめは社会悪であり、最初にとがめられるべきはいじめそのものである。しかし、いじめられて自殺をしてしまった人に同情が集まりすぎて、錯覚が生まれいじめ批判が正義であるかの誤解は愚かな悲劇を生む。いじめは、このような悲喜劇を経ない限り人の死を生まない。いじめ自殺はそのままで死に通じる。自殺は、言うまでもなく、殺人行為である。行為者は被害者のつもりでも実は加害者でもある。自殺者の両親は、それが我が子の自殺行為であれ、他人により殺害されたのであれ、同じように悲惨な結末を味合わされるのである。いじめ加害者に対する処罰感情は自らを殺害し、両親の悲哀を生み出すことによってしか、満たされえないのである。誤解を受ける可能性を残しつつ、あえていじめ自殺を強く非難する次第である。

2013,8,6   西嶋彰

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