NPO法人 ニュースタート事務局関西

建設的な思考、そのまやかし

By , 2013年5月16日 3:30 PM

人の幸せは建設的な考えの上にあるのか?
引きこもりの支援活動に関わる以前から、ある考えが今までずっと抜けきらないである。18年前に阪神・淡路大震災で、大きな建造物が倒壊したのを肌身に感じ経験したのがきっかけだと思う。それは、積み上げるあるいは建設することが根本的にはできないという考えだ。例えば、木の棒を地面に立てるとして、それを感覚的経験的にもやるし、それが土の上であるならばねじ込むようにして立てるか、あるいは棒の周りを盛るようにして固めるかもしれない。だけど、そこで考えられていることは、いかにしたら立つかということではなく、いかにしたらとりあえず倒れないかである。私たちには、立てることの正解はあらず、どうしたら倒れるかについてしか考えられない。立てたり積み重ねたり作ってみたりしているが、それは感覚的にしかやれていないか、比較的ましだというのでしかない。空間的(亀裂)時間的(風化)な土台でも揺らげば、私たちが信じていたそれら形あるものが、いかほどに頼りないものであるかは明らかになる。極端に言えば、私たちは倒れることしか経験できない。立っているように見えるのは、とりあえずのことなのだから。それでも我々の生活は、その仮の時間と空間の上に立っている。震災後、世の中は変わらないどころかより高いマンションが建ったように、我々は震災を教訓として懲りもせずに、より建設的な考え方に依っている。文明は、そこがどんな場であろうと、立たせて見せるようなとりあえずの技術を、より建設的な考えを押し進めてきたし、背に腹は変えられない資本主義的理屈なのか今後もその上に重ねていくようである。だが、例えば人の幸せは、この建設的な考えの上にそれこそ立つようなものなのか?とりあえず倒れないよう考えることと私の幸せというのはどのように関連することなのか?高校三年生の時だった。親から離れ自立した幸せについて考えはじめ、この建設的な考えで良いのかと、今でも抜けきらない大いなる疑問が湧きあがった。少なくとも、空間的時間的に違うところには違うものが立って欲しいと願った。いや、震災後見た目は違うものだが、同じ建設的な考えを下に、新しく無機質で文句も言わないものが建ったのだった。

とりもなおさず、今の社会では自分の生活を自分で成立させられないと、幸せについて望む資格がないようだった。だが、私は震災前よりも、その直後に生きていることを実感したのだった。立っていたものが仮のものであったことを、倒れる経験の中で知った。そして、ライフラインが不十分な中でこそ、何者でもない自分が生きていていい存在として見てくれる人があることを知った。生きるために条件を求められなかったのは、物心ついてからは初めての経験だったと思う。大学受験生などとして見られるより同じ被災者として、年齢や能力を超え作業に協力するその関わりは、過酷だと見られた状況下でも幸せに思えた。不自由になり水や食料の有り難みを知ったのではなく、こんなことでもなければ人として関わることが出来ない、なんて不幸な生活を送っていたのかと思い知った。今までは知ることのなかった他人の生活を知った。それまでは幸せについて考える時に、まずは自分の衣食住があってこそと段階的に考えたりしていたが、それが段階を踏んだ上にあることなのかその考えが大いに揺らいだのだ。そこでは衣食住それ自体を自分たちでどうにかしようとすることこそが大事な仕事だった。でも日常というのは、衣食住に関わる働きのほとんどをお金と引き換えに親しみもない外から調達して、そのお金を得るマネーゲームをすることや、生きる時間をお金と交換することを働くと言っていたのだった。それでは働くことと幸せとはほど遠いものになってしまうだろうと思った。幸せについて考えた時に、仕事は仕事と割り切るようなことはなかった。
引きこもりの状態にある人を抱える親は、いつか働けるようになってほしいと願う。引きこもりの状態にある人は、働いてでもないと友達に合わせる顔がないと考える。働けるのなら働きたいと思っている人はほとんどだ。でも、その働きが自分たちが生きていくことに直接関係のないもので、ただ自分だけが生活するための収入を得ること以外に意味を持ち得なければ、引きこもりから一歩踏み出そうとすることは後退するにも等しい。仕事を引退した親が引きこもってもしまうように、その建設的な考えの上にある状態こそが引きこもりであるので、仮に無理をして頑張って外に出て見せたにしてもまた引きこもることになる。ひきこもりこそゴールである。海外から富を持ち込み、科学技術も発展させてきたことにより、衣食住にまつわる身の回りの仕事の多くを失ったとも言える。今ある仕事は、生きていくのになぜ必要があるのか分からないものも多い。それでもなお私たちが外の仕事に焚き付けられているのは、絶えない欲望に依るところが大きいが、引きこもりの状態にあってはその欲がなくなるというか禁欲的になる。欲さえ無ければ人と関わる必要もなく、何よりも働く意味がなくなるからだ。禁欲的であるということは、今の社会が成り立っている、その建設的な考えの土台がないことに等しい。引きこもりだけでなく多くの人が禁欲的になれば、今ある社会は立ってはいられなくなり倒れてしまうだろう。

消費者以上の社会的な役割はない「良識ある社会」
引きこもりの支援活動もその欲を引き出そうとするものだ。行政がひきこもりやニート支援に訳もわからずお金を投じるのは、そのことを経験的にわかっているからだと思う。若者に働いたり活躍してもらいたいのではなく、家から出てお金を使ってもらいたいのだ。それによって、旧態然とした既存の産業かそれをモデルとした新たな大きな(公共)産業を守りたいのだ。その上、今までのような雇用も守り増やせるじゃないかと、良識ある社会は言い続けているのだ。でも、それらの政策によって引きこもりが本質的に出て行くことはない。なぜならば、例え企業の末端で働けたとしても、そこにはもはや消費者!以上の社会的な役割はないし、そのようなからくりは働かなくても分かるからだ。
そこで再び考えるその建設的な土台の上で良いのかと。言ったもんがち、やったもんがち、多いものが善く、大きなものに巻かれる。そのような世界に、私たちの幸せは今後も持続的に訪れるものなのか。いや、欲望に限界はなくとも、後からくる欲望には勝てない。欲望は相対的に限界に近づいている。中国など新興国と言われる国や、新たな世代にはもう及ばない。引きこもる世代の欲は、その親の世代がかつて若かった頃の欲に負けるし、今の新興国の同じ世代にも負ける。それは老いや時間に関係することだ。それを勝っているように見せかけることはできても、そのことによるしわ寄せはある。子供は減り、引きこもりが増えた。このままいくと、私たちは今までかつて経験したことのない倒壊に立ち会うことになるだろう。年齢別に人口を積み上げたよくある50年前はピラミッド型だった年齢別人口分布棒グラフが、もうその足場の悪さを露呈してかろうじて立っているが倒れそうに見えるのだ。この積み上げられている棒グラフが倒れるようなことを(それが何を意味するのかわからないが)経験をすることは、不幸なことなのか?建設的に考えている人たちが、それを心配しているようには思えない。
2013年4月18日 高橋 淳敏

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