直言曲言 第330回 新しい出発は可能か?
長い間取り組んできたわりには、簡単な結論で不審に思われるかもしれない。「引きこもり」の本質は「世代間の思いのすれ違い」に違いない。若い世代の人たちは、その父や母の信奉してきた「あるべき人間像」を全く信じられない。それどころか、そうなるように期待されることに激しい苦痛を感じる。しかし、両親のみならず、学校も社会も、すべてが同じような価値観で自分に迫って来るような気がする。周囲が望むものと、自分自身に乖離があるのだから、アイデンティティを失ってひきこもり状態に陥る。つまり、周囲に対して、不信感や恐怖心を持ち、あらゆる感情を閉ざしてしまう。このような不信感や恐怖心はよくあることで、想像するに難くないのだが、不信を持たれているご両親自身が、そのことに思い至らないのだから、「理解不可能」になるのもやむを得ない。
ひきこもりが日本に固有の現象だということは、様々な議論を呼んだ。「儒教社会であるから」という仮説はかなりの信憑性を持ち、同じく儒教社会である韓国や中国との比較検証も行われたが、残念ながら明確な同一性は見当たらなかった。儒教的価値観がストレートに引きひきこもりに繋がると考えたことに無理があったのではないか?儒教的価値観の一つである「長幼の序」や「親の思想が子どもの思索に強い影響を与える」という補助的な面で儒教社会の影響が現れているのである。それが「補助的」であるとすれば、何が主要な要因であるのか?それは、日本社会が敗北からの復活や成長に目覚ましい成果をあげてきたという特徴があるのではないか。日本は「敗戦」というどん底から立ち上がり、目覚ましい復興を遂げた。その後も何度も不況に見舞われ、そのたびにしぶとく再生した。オイルショックも、バブルの崩壊からもである。ジャパンアズナンバーワンと称えられたこともある。それは、確かに日本人の努力のたまものであり、奇跡的な頑張りの結果でもある。その成果は、自他ともに認めるところとなり、多くの大人世代たちは自信を持った。当然のように、大人たちはそれを子ども世代にも引き継がせようとして、子ども世代を叱咤激励した。
しかし、折悪しく、世界の経済は曲がり角に来ていた。困難に遭遇すればするほど、大人たちはそれを努力と競争によって乗り切ろうとした。その頃世界の社会主義勢力が敗北し、新自由主義がはびこりつつあったのも、若者たちにとって不幸であった。残酷な新自由主義は競争によって不幸な境遇は克服できると思いこませた。大人たちは頑固にそれを信奉し、若者たちは、競争の残酷な面だけを押し付けられた。協力や協働を学ぶべき幼年時代から、競争を押し付けられ、勝ち続けることをのみ強いられてきた。勝者がいれば必ず敗者がいるという単純な事実すら大人たちは気づいていなかった。その勝者も、決して幸せな未来を迎えられないということは、時代の波は教えていた。不幸に向かって突き進む競争の嵐を若者たちは恐怖し、人と争うこと、人と共に生きることに恐怖するようになった。
世代間の価値観の違いはよくあることで、それはしばしば若者の反乱としてあらわれる。
しかしこんな時に限って、儒教社会の道徳観が若者を縛った。「父母の言うことは絶対」という思いが若者たちの言葉を封じ、無言の抵抗となった。こんな時、親たちがいくら言葉を尽くして説得しても通じない。ますますプレッシャーに感じて鎧を固くする。父母と若者、どちらが正しいかを論じてもどうにもならない。ただ、現実問題として、若者たちに豊かな未来を準備しえず、無力感を感じさせ、押さえつけたのは父母と同世代の大人社会であることは間違いない。少なくとも、そのことを理解して、若者たちとの和解を求めるべき責任は父母たちにある。
十数年の思索を経て、こんなことに思い至った。ところで、奇妙なアナロジーと思われるのは心外だが、私たち「NPO法人ニュースタート関西」はその母体である「NPO法人ニュースタート事務局」から独立して高槻市に法人登録することになった。千葉県にあるニュースタート事務局が『認定NPO法人』を目指すことになったため、この機会に独立を目指すことになったのだ。私たち「関西」はこれまで何度も書いてきたように、理事長である二神能基氏により触発され、そのブランチとして登記して、活動してきた。活動方針については何ら指示されず、ただ、幾多の啓発を受けながら、独立した活動を続けてきた。いわば、後発部隊としての「関西」が親でもある「千葉本部」に「異」を唱えるはずもなかったが、どこかで頭の意に従わない尻尾に違和感を感じておられたかもしれない。私たち「関西」が「少し違う」感じを持っていたとすれば、あらゆる意味で「中央」とは違う「辺境」の地にある運動体という点に限られるに違いない。そのことがニュースタート事務局本部がこれから目指される方向性の邪魔になっては申し訳ないと思い、この際独立した路を歩むことにした次第である。
いずれにしても、これから歩む途も、これまでと少しも変わりがない。親たちや、今の社会のありようと理想を異にする若者たちが、少数者や弱者の扱いを受けず、おおらかに生きていけるように、われわれは支援の手を差し伸べ、その為の支援活動を続けて行く所存である。月一回の「引きこもりを考える会」は例会として研究会を続け、月2回の「鍋の会」は友だちとの出会いの場として、誰にも開かれている。こうした場に自ら出て来られない人の為に自宅「訪問活動」を続けている。親元を離れ、共同生活寮で暮らすことも人と人との連帯の可能性を実感するために必要な第一歩である。こうした活動は毎月の会報誌の発行やインターネットのホームページによって告知される。
「引きこもり」は社会と時代が大きな転換期を迎えている今、歴史の先行グループと後続グループの間に、ややもすれば置き去りにされようとしている。私たちは、取り残されようとする人たちのグループを、決して見捨てることがないだけではなく、彼らの参加なくしては新しい時代作りに参加できないと思っている。それは勝者のみの「勝ち残りユートピア」を目指すのではなく、次の世代が安心してついて来られるような未来を確信できる共同空間でありたいと思う。私たちは決して若者と親たちの離反を願うものではない。そのためには、人を押さえつけての幸福ではなく、人と手を携えての未来を描かなければならない。
2013,5,8 西嶋彰
過去は消えません。
人との関係は簡単に消えます。
ただ私は西嶋さんが代表だった時、お言葉いただぎ多いに青春をやり直せました。
難しい話はよくわかりませんが、過去を背負う限り、いくつになろうと新たな出発は可能ですと最近思います。
清水博文様
先般は高槻の拙宅までお越しいただいたのに,おおぜいの人の前で話しかけられなくなり、失礼いたしました。さてひきこもりの問題ですが、人間不信や対人恐怖は学校の先生やご両親が幼児に競争を 押し付けることにより起こります。しかし、その結果は個人の性格に影響を及ぼします。性格は、個人固有のものであり、ご自分以外に誰も変えられるものではありません。他人が性格に影響を与えようとしたら、ますますひきこもりが強化されるだけです。また性格は一朝一夕に変えられるものではなく、時間をかけて知らず知らずのうちに変化していくものです。ひきこもりの原因をよく理解し、そのことを時間をかけて克服していけばよいのです。またそのことは考え続けるだけではなく、何か自分が打ち込める事柄を発見し、そのことに夢中になれれば早く変わっている自分を発見するでしょう。お声掛けいただければいつでもお会いいたしましょう。
西嶋 彰