NPO法人 ニュースタート事務局関西

引きこもりから学んだこと

By , 2012年12月26日 12:44 PM

引きこもりから学んだこと

 

引きこもっている人の親の世代にも引きこもった人はいた。数が少なくて社会問題とは、ならなかっただけだ。それぞれの時代は、社会の枠からはみ出たかに見える若者を理解しようと際立つ存在には名称をつけた。同じ問題ではないが、活動家、新人類、非行や不良、不登校、フリーター、ニート、発達障害などもその一つであろう。精神障害者として、薬を飲まなくてはならなかった人も、学校や会社に務めるために薬を飲んだ人もいた。どう呼ばれようと、例えば障がい者として一人で生きてはいけないとされるならなお、地域社会で人を頼りに暮らさなくてはならない。年金をやるからといって、社会から追いやられて文句も言えず生かされるだけなら、文化的な生活は暮らせていないと、それこそ人権の侵害となったのだ。はみ出すのなら、より社会的に生きていく必要があるのだ。

この時代に引きこもりが大きな問題となったのは、引きこもる気質をもった人種が突然変異で日本を中心に多く産まれてきたからではない。いつの時代にも理解し難い若者という存在が、「ひきこもり」という現象として言い現されたのであって、言い換えれば、引きこもりという状態こそが、多くの若者にとってはこの社会との関わり方を意味している。近年の私たちは、何かをするために産まれてくるのではない。時代が時代なら農民であれば農業をするため、王族であれば国を司るため、戦争時であれば国のため、高度経済成長期であれば会社のためなどあったのだろうが、それらは時代や場所によるもので、産まれてくる者は、ただ生まれて、その社会との関わりから生きる目的のようなものが決定されてもいく、というのが近代的な考え方である。学校教育や親の育て方が悪かったというような言い方をされることはあるが、引きこもる人は生きる目的のようなものをいまは見出せないでいる。そして、良くも悪くもこの生きる目的のようなものが、見出しにくい今の社会ではある。仕事はなくとも生きてはいけ、働かなくとも変わらない社会がある。むしろ、働くことによって生活水準が下がったり、働くことがこの社会を維持し変えない力になっていて、どうにもこの世界に馴染めなかった人にとっては、関わって幸せな状況とはなりにくい。

ひきこもりという言葉が現れているこの20年くらい、日本の経済は低迷し続けていると言われている。というよりむしろ、転覆することもなく人件費などを大幅に削減しながら、体裁としての経済低成長をなんとか維持している。これを一般の家庭に置き換えてみれば、子ども世代の雇用を抑え親世代の仕事を何とか維持することによって、体裁としての家庭生活が20年失われず持続できたようなもので、父親が外で働いている会社的威厳でもって仕事をしろと息子に説教をしたところで、外に出れば父親たちの働く会社を守るため、若者たちは雇われる前に門前払いをされているのだ。どこまでも友好的にはなってくれない社会との間の問題として、引きこもりの発生は当然の結果としてあった。資金がある方がどうしたって強い資本主義社会である。みなが貧しかった時の方がマシなこともある。ここで引きこもる我々が開き直り、お互いが肯定される存在として交流し独自の経済をつくれば良いが、世間は協力してくれることはなくニートだと批難し、発達障害だと医療の管理下におこうとする。コミュニケーションができなくなっているのは社会の側であって、社会をまだ知らないけど馴染めないと感じている側にあるはずはない。我々は管理される対象でもなければ、批難される存在でもない。

それよりも、この末期資本主義的経済を見よ。石油の利権を戦争で奪いとり、わずかな労力で大量のエネルギーを原子力で得て、食料などは海外からタダ同然で仕入れる。ショッピングモールに物資を一ヶ所に集めて並べ、新たにつくる道路はない。100円のものを買おうか悩んでいる横で、何億という金がクリック一つで失われる。それでいて、私たち引きこもりに何をやれというのか。老いゆく親の介護と新たに生まれてくる子供の世話ができれば上等であろう。なのに以前にも増して、銃を持って戦い、放射能を浴びながらも作業をし、時間と金をバーターするような仕事や、何億という金を動かすための都合あわせの働きをしろと、そのような脅迫が当たり前のようにこの社会では行なわれている。

人類の課題はこの引きこもりの中にこそある。かつての若者問題は、強かった日本の経済が回収し、なかったこととされているようだが、引きこもり以後の問題は回収されず長引いている。史上類を見ないほどに、物質的には豊かになったこの世界がそのピークを過ぎて、今までいき過ぎたことを反省させられながら、賢明に生きていく方法が分からず立ち止まっている。そうやって立ち止まっている人が、一人ではないことを私はここで学んだ。引きこもった経験のある一人の人が、どのようにして今の社会で生きていくのかは、地味なことであっても、この地球上の生物の幸せに影響するほど重大なことなのだ。飛び立つのに、そんな大きなものを背負いたくない人もあるだろうが、周りの人はその尊厳をもって、彼、彼女らに接し見送るべきである。

 

 

2012年12月12日 高橋 淳敏

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