いじめの構造
「お前は生きている価値のある人間なのか」と問い詰められる。
いじめられた者が時として、自死に追い込まれることや、いじめる手段に葬式ごっこ(机に花などを置いて、死んだものとして扱われる強烈な無視)があったように、いじめる者は「お前は生きている価値のある人間ではない」と、自分と似た境遇にある誰かにその矛先をむける。
「お前は生きている価値のある人間なのか」と問われているだろうに、いじめられても変わらずにのうのうと生きているようにみえるその者が憎くてたまらない。いじめられた者がいじめによって変わっていけば、いじめた者の屈折した「生きている価値」となっていく。いじめられる者も、その理不尽な暴力とともに「私は生きている価値のある人間なのか」という問いを共有させられる。「お前は生きている価値のある人間なのか」という問いを、暴力でしか表現できないあなた(いじめる者)とは違い、私はただ生きている価値があるのだと思い込むことが、いじめられる者の生きていく上で自分を保っていられる感情となる。その感情は、問いを持ついじめる者を蔑むような場合もあり、いじめる者には応答することもできなく、さらにいじめがエスカレートしていく。
いじめる者は、そのターゲットを変えることがある。いじめる者は屈折して問い続ける「お前は生きている価値のある人間なのか」と。いじめる者がより切実にその問いに苦しんでいることがある。周りは、いじめる者がその問いをいじめられている者へと発していると知っているが、いじめられている者が応えられないのと同じく、同じ構造中で傍観している者は応えることができない。「私はただ生きているだけで価値はあっても、それを否定しようとするあなたにその価値があるかどうかは分からない」。時には、私はあなたにこんなにひどいことをしているのに、私が生きる価値のある人間だとあなたは認めてくれるのかといじめているようである。それは抱きしめるようなことであるかもしれないが、いじめられる者は抗うことはできない。
ただ、そのいじめの構造の中でいじめられる者が、あるいは傍観する者が比較的より切実に「お前は生きている価値のある人間なのか」という問いを請け負うことがあり、応答できることによってか、その構造(関係)が変わることはある。生きている価値があるとすれば他人から与えられ、それによって少しは確認できるようなことであろう。その他人に対していじめることでしか表現できなかったり、いじめられることしか他人から与えられないといったように閉塞的な状況である。なぜ、同世代ばかりが集まる学校という教育現場で、「お前は生きている価値がない」というような刃が、すべての生徒に対してランダムに向かってくるようなことになったのか?
いじめられたものが最後にそう思うしかないように、私たちはただ生きているだけで価値があ
るのである。それはただあるのであって、そこからしか考えられない。目の前の人が、それでは価値がないというならば、それが自分のことであろうと相手のことであろうと抱きついてクリンチをして言い続けるしかない。
ひきこもりの構造もこれに似ている。ひきこもっているものは、ただ生きているだけで価値があるのだと、家にいて静かにも暴力的にも訴え続けている。それを外には言い出せない、なぜならば、いま外は「お前は生きている価値がある人間なのか」と問われ居たたまれない場ばかりだからだ。せめて「私はいずれ働いて、生きている価値のある人間となります」と予告でもしなければ、外に居続けることが難しい。
私はいつもこの点の順序が逆だと考えている。特に、引きこもらざるをえなかった人は、ただ生きているだけで価値があると外から認められてこその仕事である。そして仕事の本来の意味はそういうものである。仕事をしているあなたに価値があるわけではなく、生きていることに価値があるから仕事があり、人は働くのである。生きていることそのものに価値がないのなら、本末転倒甚だしい。私たちは生きるために働くのだと、盲目的に動物的に信じこまされてきた。そうじゃない、生きることそのものの楽しみを、やり直したいのだ。それが何の価値を産まなくとも、生きること楽しむことこそが、仕事であるのだ。友達や恋人が出来てから、仕事をするのだ。この順序が大事なのだ、この順序が逆になると、世の中は呪われた仕事ばかりになるだろう。
髙橋 淳敏