「スローワーク草案」髙橋淳敏
ニュースタート事務局関西に関わる人たちが牽引して、日本スローワーク協会というNPO法人を作ったのが2005年で、その形態や関わる人がさまざまに変化したこともあって、10周年記念など祝う余裕はなく(全然スローじゃない)、祝ってもらう雰囲気もなかったわけだが、一体何をやってきてこれから何をしていくかを見直す時期に来ている話題に最近なった。11年経ってようやくスローワークのことを皆で話し合うわけで(これはスローである)、その草案を考える仕事が理事なので私の方に回ってきた。といっても、NPO法人を作ったときに何も考えていなかったのではなかった。設立趣旨書にはこう書かれてある。「前略~スローワーク協会は旧来の競争原理と自助自立によるファースト(より早く、より大きく、より多く)な価値観に替わる新しい生き方、働き方を提唱し実践することを目的に組織されます。~」だが、ここにはファーストに代わるものと言ってはいるが、スローが遅いやゆっくり以外にどういった価値があるのか、ワークとつなげた造語スローワークとは何なのかは書かれてはいない。キーワードは文面にもあった「共生」であるが、それがどのように実現されるかはさまざまな人が入り混じる中でやってみなくては分からないことであった。当時はその勢いでよかったのだが、いろいろと問題も出てきた。そのいちいちをここでは検証できないし、たぶんこの機会にも検証しきれないが、ファーストではなく、スローにスローワークを定義する仕事を実践していくために、ここでも草案についての文章を公開し話し合いのすそ野を広げたい。草案の草案といったところかもしれないが、思っているところを書留めてみる。
そもそもなぜ私たちに、ニュースタート事務局関西ではなく、他の日本スローワーク協会という集まりが必要になったか、その前身である2001年から始まったフリーターズネットワークの存在を思い出す必要がある。時代はフリーターなど非正規雇用といわれる労働者が労働組合などにも相手にされず、その働き方に悩みだす人が増えてきたころにあった。それでも、正規雇用こそが名前のように正しい働き方であるといった考えが、フリーターをしている人たちの大半も考えていたので、一人で入れる労働組合なども後に広まったが、孤立していて困っている人たちに対する労働相談が中心になった。そのころを境に働き方が改善されたかと聞かれれば、売り手買い手の力関係、経済の浮き沈みで、就職率くらいは変わっても、知っている人ほど働き方はむしろ悪くなっていると考えている。だからなのか、現在のほうが無垢に正規雇用の神話を信じる人が多いようにも思う。現在は飽和状態にあるが、自己責任社会の問題があふれ出した季節であった。私たちは引きこもりの問題をやっていて、「友達」(鍋の会)や「生活」(共同生活寮)に活動の重点を置きながら、最終的には「社会参加」によって引きこもりが解決されると考えていたので、仕事のことは当初から大きなテーマであった。
それにしても、大きな企業に正規で雇用されるか、非正規で雇用されるかという話と、引きこもりの問題はどうにも相性が悪かった。
卑屈に考えれば、アルバイトでもできればいいといった話しは家族や本人にもよく聞かれたが、アルバイト生活した後に引きこもる人は多くいたし、そもそも引きこもりはいい学校いい企業などといったコンベアー教育の中で、友人関係がぎすぎすしていったような話からはじまるのであった。そしてそれらをたとえ振り切ったとしても、何のために働き何のために生活するのか、克服しようとする行為(一人でがんばろうとしたり、引きこもったり)が病気や障害などと見立てられることが多くあった。なので、引きこもりを支援する発想には、雇われないで働くことを考える必要があった。そして、そのような働き方は支援者当事者関係なく、考えるだけでなく自分たちで開発していく必要があった。フリーターズネットワークはその後、ニュースタートの中でNSワーカーズという集まりに発展した。しばらくして、外から合流する人たちもあって、日本スローワーク協会となる。
それではその新しい働き方は何が違うのか。雇われないで働くのは、個人商店だとか協同組合だとか、それまでもあった。それらに学ぶことも多いが、私たちはなぜ引きこもらされたかというところから、働き方を考えていかなくてはならなかった。ニュースタート事務局関西は、引きこもらされた原因を人間不信や対人恐怖にあると考えている。人を好きになれなかったり、信じられなかったりするのを、その個人が悪いといっているのが、引きこもりに冷たい社会であるが、まずもってなぜそのような社会にしたのかを変えていかないといけないだろう。たとえば、個人主義と自己責任が結びついた時の、あの言いあらわしがたい感じは、何度も経験する必要はないものだろう。ひとつの作業があったとき、それを押し付けあったり、奪い取ったりするのでなく、「協力」することの難しさがそこにはある。一人でやるほうが楽で効率的であったとしても、その仕事を居合わせる自分とは違う他者と分け合って、「協力」してやることなのだが、現代においてはそのような働き方はとても珍しくなってしまったと考える。スローワークは、「協力」してもなんらかの成果がともなうような働き方や仕組みを考えている。
このような働き方は時代にもあっていると考える。というのも日本だけでもなく、世界も経済はあまり希望もなく下がり調子である。一度栄華を極めし文明は落ちるときも早いが、今の資本主義はそれを表面的にうまくやっているように埋めなおしているくらいで、自分たちだけは落ちないようにと国も個人も身を守っているようなつまらない季節である。そのような時期に、「協力」して仕事をすること、どんな些細な作業でもできれば協力していくことは、やりにくくはあるがとても大事で価値あることだと考える。でも、ゆっくりやるのは楽な仕事ではない。ここに関わっている誰もが冗談のように言い合うが、自分たちで考えてやっていく仕事はとてもハードである。スローワークの反対はハードワークではない。スローワークはハードワークかもしれないが、誰かから言われてやりたくないことばかりをこなさなければならないあのハードさではない。誰もやらないから自分がやるとか、人に押し付けるようないやな感覚もないといいたいが、なくするためにはどうしていけばいいかを主張できない人でも話し合える仕組みが大事だろう。
2016年12月16日 髙橋淳敏