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直言曲言 第334回 第三者

By , 2013年9月24日 10:00 AM

子どもに自分の言葉が伝わらない。子どもが、何か「得体の知れない」生き物に変質してしまったのではないか。引きこもった子どもを持つ親は、そんな感覚に襲われるようだ。言葉の伝わらない子どもに対して、親は言葉を選んで、手を変え品を変えるように様々な説得を試みる。それでも子どもは態度を変えようとしない。それどころか、言葉自体に耳を貸そうとしない。こんなことが、五年も十年も続けば、親は絶望して、説得自体を諦めるようになる。そんなとき都合よく耳に飛び込んでくる言葉がある。「第三者に任せろ」という言葉である。引きこもりの説得は親には無理であるから、第三者の支援に委ねろという意味である。ニュースタート事務局関西の「引きこもり構造図」(事務局設立後一年後くらいに造った説明資料)に「第三者による脱出支援が必要」と書いてある。このことは引きこもり家族、支援者グループ共によく知っておられて、「第三者」と言うと、すぐに納得される。親がこの問題を抱え込まれて、よほど苦労をされてきた結果なのだろう。知ってはおられるが、第三者でなければならないのは何故だろう、理解されている人はほとんどいない。まるで「第三者」が超能力を持っているかのように思いこんでおられて「信仰」のような信じ込みようなのである。支援グループが悪用して、祈祷料を吹っかければ払いかねないような盲目ぶりである。新興宗教が簡単に人を騙すのもうなずけるような、無批判な信仰ぶりなのである。日本人の、しかも相当にインテリジェンスのありそうな人種までがそんな状態である。引きこもりとその家族は、さんざん苦労して解決できなかったので「第三者」を頼るようになったのだろうから仕方がないかもしれないが、第三者の方は「分かっていて」沈黙を決め込んでいるとしたら「罪深い」。かくいうニュースタート事務局関西も家族の困惑が深いということだけが分かっていて、彼らの「第三者」に対する信仰がこれほど宗教に近い信仰だとは気がつかなかった。
我々が超能力など持っているはずはない。しかも「第三者」に委ねればかなりの高い確率で引きこもりが解決するのは事実である。親と子の間には血縁による「自家中毒」のような解決を阻む「要因」が潜んでいるのか。結論を言えばそれに近いのかもしれない。しかし、それが病的要因であるとすれば、第三者もまた医学的方法で臨まなければならないはずである。医学的方法でもなく、「おまじない」でもないとすれば第三者にどのような方法が残されているのか。解決方法を述べる前に、親たちはどんな方法で病をこじらせているのかについて述べて見よう。
まずは、そもそも「引きこもり」になってしまった要因に気づくべきなのである。まずは先ほどの「引きこもり構造図」の中でも私は「社会的要因」として競争社会をあげている。理解を深めて頂こうとして、受験競争や受験勉強をやり玉に挙げるのをやめて、偏差値や総合点主義を批判している。総合点によるランク付けは「人格」評価に等しく、得点上位者は人格者で、低位者は落ちこぼれであるかのような評価を呼んでいる。成績表にはそのように記述はされていないが、その総合点で大学合格の可能性が評価され、低位者はムシケラのように扱われているのは事実である。もちろんこれは高校3年生や受験生に限ったことではなく、今では中学生以上のすべての学年に知れ渡ってしまった人間評価法なのである。親にとってそれは子どもの教育方法の一部にしか過ぎないと思うかもしれないが学校教育中の子どもにとって24時間、一事が万事付いて回る評価であり、レッテルである。勉強中のみならず、遊びの間にも優等生と劣等性の仕分けは付いて回る。進学校ともなればそれが唯一無二の名札でさえある。遊び相手の友だちさえ、成績は優劣を判定する指標であり、競争は常に意識させられる。そんな競争を強いているつもりはない。「うちの子はそんなに成績を気にしていない」などという親はよほど牧歌的なのか無責任な存在である。
ところで「第三者に任せろ」という言葉だが、このような「親の責任」を自覚せず、「第三者」に投げ出してしまうのは当事者意識の放棄であり、無責任な所業なのである。無責任とはいえ、親に自覚がないのであれば、確かに当事者責任は果たせない。第三者に支援を委託するしかない。親の役割を果たすどころか、子どもが辟易として引きこもりになってしまうほど「嫌っている」「競争」に更に鞭を売ってしまうのである。これでは子どもは親の言うことを益々効かなくなる。いうことを聴かない子どもを「反抗期だ」などと片付けてしまうのは度し難い親だと言わざるを得ない。何しろ、子どもに「競争に勝て」と鞭打つのは「親の愛」だと思い込んでいるのだから、その言葉がますます子どもの引きこもりを深めてしまっているなどご存じない。
簡単に種明かしをしてしまおう。第三者は引きこもりの子どもに「競争」を強いることなどしない。「親の愛」だなどと思ってしまっている父親や母親だけが、子どもをますます窮地に追い詰める。学校の先生などもその点では同類である。だから学校の先生だけはこの「第三者」からは除外する。学校の先生は誤った職業的倫理意識から競争に追い込んでいるのであって、親の愛などというものとは無縁のようである。ついでに申し上げておくと引きこもりの子の親には学校の先生が多い。中には「両親ともに先生」という気の毒なケースもある。だからといって「先生」という職業を持つ親に責任があるというわけではない、けれども先生を親に持つ子が引きこもりになりやすい理由は説明するまでもなくお分かり頂けるだろう。「お気の毒」という他ない。学校教育のシステムや評価方法を変えない限り、先生を辞めるか定年を待つしか方法はないだろう。定年を迎えたからといって、体に染み付いている教育方法や人の評価の仕方はなかなか抜けないだろう。こういう人は結局「第三者」に任せるより仕方がないのかもしれない。
「第三者に任せる」ことの意味や、なぜ「第三者は解決できるのか」について語ってきた。だが、「引きこもりに特効薬はない」と言ってきた。「第三者」に任せてもうまくいかないケースはある。当事者がその第三者を信じないケースである。当事者の人間不信が頂点に至っている。普通なら学校生活や社会生活の中で競争や人間不信に陥っていても、そんな人間関係と無縁な「鍋の会」のようなところへ出てくれば気分は一新するものだが、極端な人間不信にはそれは通用しない。この場合、親は第三者に任せずに自らの人間不信を克服することにより、子どもの人間不信を気長に解いて欲しい。

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