直言曲言 第332回 使命
引きこもりは日本特有の社会現象らしいが、青年の失業率増大は各国にもある現象らしい。国際ニュースでも耳にするのはヨーロッパで起きている問題である。エジプトやトルコ、東欧諸国では「○○の春」のように政権を揺るがすような騒乱事件が頻発しているが青年失業率増大問題では政情不安が懸念されているがそれほどに不安定な情勢にはならずおさえこまれているようである。こうした問題が伝えられているのは日本も含めた「先進国」のようでありどうやら共通の背景が潜んでいるように見える。
「失業率増大」ということはその国が必要なGDP(国内総生産)を稼ぐのに、これまでのような労働力を必要としていない。つまりは産業構造の変化を示しているということである。GDPそのものが減少していれば、その国は国民に分配する富が減少してしまい、アラブ諸国のような暴動が起きてしまうに違いない。しかし、GDPそのものは維持しているのだから、分配そのものは維持されている。ただ分配の恣意性が、一部の大資本に握られており庶民・労働者は分配の権力者により施しを受けている状態である。いわゆる「先進国」化は資本主義的生産の推進・工業化の推進によってなされている。生産手段としての向上や設備は資本家が握っており、農業よりも生産効率が上げやすいため都市化による工業化を推進する。しかし、工業化をどんどん進めていけば、過剰生産となり市場を海外に求めることになる。国内においては賃金も上昇するため、生産設備も海外に移転し労働力も海外に依存する。世界的な富の配分だと考えれば、平等化への進展でもある。ただ、それが富の収奪や独占を推し進める大資本によって押し進められているのが皮肉な現実である。世界ではまだまだ食糧さえ碌に分配されず、子どもたちが餓死する国さえある。一方で先進国や中進国では産業や労働力の取り合いである。北朝鮮の開城(ケソン)工業団地の操業続行問題などは両国の利害が一致しているのだから「牧歌的」な方であろう。
ところで、日本における若者の就職難は、かつて「金の卵」などと呼んで尊重して若者労働力を他国で調達できる、その方が資本にとって多くの利益が上がるからと切り捨てる資本側の身勝手が原因だが、他の先進国における例によっても分かるように、それだけで引きこもり問題に繋がっているのではない。社会全体や大人たちが、資本の身勝手を見逃して就職できない、就職しにくいのを若者たちの怠慢のようにプレッシャーをかけているからである。最近の失業率の動向でも、正社員が減少しアルバイトや臨時雇用の非正規社員が増えている。非正規社員の身分が不安定なのは確かだがただ、そのことだけを指摘され、教えられていても就業の意欲も目標も見えて来ない。労働力の海外分散や失業率の増大は一時的な問題であるとしても、これからの長い人生多くの若者が仕事に着かないで生きていけるとは思えない。ニュースタート事務局(千葉)の二神理事長は次善の方策として若者たちに「一番嫌でない仕事を見つけて」働いて欲しいと言っている。仕事の例として通販倉庫での商品仕分けの仕事などをあげている。アルバイトや臨時雇用なら引きこもりでも採用される可能性はあるのだから、一つの見識である。我々ニュースタート事務局関西でも就業支援の一環として「働ける」仕事を見つけて徐々に地域社会に送り出している。
しかし、私としては内心「それで良いのだろうか」と思っている。「嫌でない仕事」が彼らのやりたい仕事だとは思えない。やりたくもない仕事を無理やりやらされ、非正規社員としての差別的待遇や将来不安の中で本当に生きていけるだろうか。これではかえって、仕事嫌いで夢のない若者を大量生産してしまわないだろうか。私は、若者の特性として、一時的に恵まれていなくても、夢を持って生きられるという点を信じたい。それにはもちろん、将来的な理想が必要で、不幸な現在や現実に対し、健全な反抗心が必要である。
精神的にタフな状態にある時ならば、嫌な仕事でも限られた短期間なら我慢できるかもしれない。しかし、現在の引きこもり青年にとって、短期間でこのような不安定就労の状態から抜け出せるとは思えない。わずかな賃金をもらえるという以外に何の希望も見いだせない状態に安住出来るであろうか。「緊急避難」的に就労しなければならないならともかく、政府や社会を見ても、我が家の家計を見てもそのような「緊急性」は感じられない。両親の将来的な安心や気休め以外の意味があるとは思えない。引きこもりの若者にとっても、将来的就労の必要性は理解できる。それは一時的な「避難」の問題でなく、一生涯にわたる生き方の選択である。だからこそ、職業の選択・生き方の選択は自分自身が納得できる選択をしたい。
理想的な生き方の選択とは何だろう。それは、働いていて楽しい。やりがいがある。神様から与えられた「使命」だと感じられる仕事ではないだろうか。父や母の世代の人が聞けば「なんと甘っちょろい考え方だ」と思うのであろう。しかし、その世代の人々が「使命感」もなく嫌な仕事を諾々と引き受けてきたからこそこんな時代になったのではないだろうか。仕事の楽さや賃金待遇の良さなどの問題ではない。額に汗をにじませる農業や一次産業の誇りはさっさと捨ててしまい、一週間ごとにやって来る土日や遊休休暇を至福の安息日と考えて、惰眠をむさぼっていたからこそ、「安息日」の幻想が世間に蔓延してしまったのではないか。汗から逃れての安息こそ、中進国や後進国の庶民に低賃金労働を押し付けて、アベノミクスなるバブルで食いつないで行こうとする新自由主義の悪あがきである。そんな虚構の経済システムに加担するよりも、甘っちょろくても「使命」を探して遠くを見つめている方がよほど美しいと思う。青年には、大人たちが「現実的」だと思う現状と妥協せず、夢を夢見続ける特権がある。残念ながら、20世紀末葉に社会主義革命は足を踏み外してしまった。それは、革命先進国だったはずの幾つかの官僚指導部が、後続エネルギーを救い得ずに、自由主義の超大国との覇権争いにうつつを抜かしてしまったことにある。また我が国では、蜂起前段の準備段階で人民の海を形成できずに暴発してしまったことにある。私たちは、こうした不幸な経験を深く反省しているけれど、普遍的な真理が瓦解してしまったとは考えていない。詐欺師たちの掲げるまやかしの存命システムに加担することなく、彼らの余命が残り少ないことを一日も早く告げなければならない。そのためには、若者たちが不安におびえることなく、必ず理想の日々に近づいているのだと確信させなければならない。理想を掲げることこそ、若者の使命である。
2013、7、9 西嶋彰