直言曲言 第327回 「切り捨て」
最近、よく目や耳にする「新語」がある。大した意味があるわけではないだろうと放置していたのだが、あまりにも再々登場するので気になり始めた。それは「アベノミクス」。前後の脈絡から「アベノ」は安倍、つまり自民党総裁・総理大臣のことだとわかる。「安倍ノミクス」は「安倍+economics」つまりは 「安倍流経済政策」のこと。「安倍流経済政策」とは何か?経済用語だとしたら、当然その意味は何だということになる。民主党からの政権交代により、経済成長が期待値として高まり、円安や株高が経済政策発動以前から上昇し始めていた。「安倍自民党」が期待にこたえて、「経済を成長させた」というより、「成長」を期待する勢力が自民党を勝利に導き、その期待値がそのまま、株高や円安を先取りしているのだ。アベノミクスをさも経済の好転だと言わんばかりの論調もあるが、言うまでもなくギャンブルにおける賭けの単価が変わっただけで、勝ち負けそのものは未知数のままである。ギャンブル好き派にとっては、投機の機会が増えるだけでも良い兆候と思えるのかもしれない。そもそも、ギャンブル場になど近づかない一般の国民にとっては何の関係もない。自民党政権というものが、遊休資産をギャンブルに投じて儲けようとする人々によって支えられていることの一つの証である。
そんなことには無縁な一般国民にとって、アベノミクスはどんな意味を持つのだろうか。前政権から引き続いての課題であった消費税の値上げ問題はどうなったのか?「税と社会保障の一体改革」は自民党・民主党を問わず、消費税値上げの免罪符であったはずだ。しかし「アベノミクス」などの妙な新語にまどわされているうちに、自民党は露骨な本性を現している。選挙前までは消費税率の引き上げは、社会保障制度の充実の為に必要だとしてきたはずである。政権が変わり、補正予算の審議の中で自民党は「10兆~20兆円」の規模のばらまきを吹聴していた。これこそがアベノミクスの中身である。これに対して3年がかりで800億円と言われる生活保護の切り捨てが行われようとしている。税と社会保障の一体改革のはずなのに「なぜだ?」と叫びたくなるが、この理由が自民党らしくて呆れてしまう。同じ社会保障の一環のはずの「年金やその他給付金」に比べて、「生活保護」の方が高くなってしまうのだそうだ。だから「高い」方の「生活保護」の支給基準を切り下げて、その他の生活保護と足並みをそろえようとしているのだ。最低賃金制度があり、人により、生活保護受給者よりも所得が下回ってしまうのだという。もしそれが問題であるとするなら、最低賃金そのものが低すぎるのであり、生活保護の方を切り下げてバランスを保つなどという発想法が出てくるはずがない。
「税と社会保障の一体改革」を目指して、消費税の値上げをしようとしているなら、「切り下げ」でなく低い方の「切り上げ」をしようとしないのか?ましてや10兆・20兆ものバラマキをしようとする中、わずかな金額なのである。本欄でこのようなことを愚痴るのは本意ではないが、つくづく「弱者切り捨て」の自民党政権の政策を許してしまう選挙民の選択が口惜しい。
アベノミクスに代表されるように自民党の経済政策とはこのようなものだ。これまでの書き様からも、私はこのような自民党の経済政策に大反対である。しかし、恐らく本欄の読者であろう「引きこもりの親御」さんが私と同じようなご意見をお持ちとは限らない。私がこれまで考えてきた「引きこもり」の社会的要因がそのようなものであるとするなら、決して自民党的な政策を支持なさるとは思えないのである。
まず、子ども達・若者たちを引きこもりの世界に引きずり込むのは、競争社会=自由主義社会であり、自民党が推進する自由社会イデオロギーである。しかし、親たちは自らがそうしたイデオロギーの推進者であるとは自覚していない。子どもたちが、そうした社会から落ちこぼれ「負け組」になりそうなのを見て、動揺しているだけである。私たち「引きこもり」支援組織にしても、偉そうな顔をする必要はない。お金儲けのためにやっているとは言わないけれど、親の自己負担によって支援活動を行っているにすぎない。受益者負担、自己責任、すべて自由主義の原則通りの活動である。しかし、自由社会におけるNPO(特定非営利活動)法人として経済活動原則にのみ従って活動し続けることはできない。親の自己負担を望みえないケースで、われわれは何が出来るのか?親は政府にも、自治体にもわれわれNPOにも頼れない時に何をするのか?そんな時「浮上」してくる自由社会での概念が「福祉」である。引きこもりを解決不能な「気の毒」な存在として、見下し、社会的な救済に頼ろうとするのである。引きこもりを「精神病」の一種として障害扱いし、障害者年金を受給させようとしたり、「精神病」とまでも行かないとしても「発達障害」やその他さまざまな障害として扱い、福祉の対象としてしまうやり方である。
「福祉」として考えるなら、様々な「救い」ようはあるのであろう。ただし、この場合、加害者の問題は消えてなくなる。競争社会やそこに追いやった社会システムの責任は問われなくなる。5年、10年に及ぶ引きこもり問題を抱えた親は「もうそれでも良いや」とあきらめる人も少なくない。自由主義社会イデオロギーの立場としては、社会システムとしての責任は問われず、「福祉」としての施しを受けてくれるなら、こんなに有り難いことはないのである。しかも「福祉と税の一体改革」などと称しても、切り捨てに次ぐ切り捨ての果てに、最低限の保障を施せば、ありがたく頭を下げてくれるのである。
「自由主義」と「社会主義」の比較をしているのではない。自由主義が勝ったのではないが、社会主義も生き残らなかった。自民党という保守主義政党の「憲法改悪」「自衛隊の海外派遣」「原発推進」など様々な政策が、生活保護の切り捨てなどの国民生活の圧迫の裏返しとしてのアベノミクスという経済政策に隠されている。長引く不況は誰にとっても克服したい課題であろう。しかし、円安や株高などは決して庶民の懐を暖かくするものではない。ましてや、彼らが狙っているのは、資産家たちの金融資産を増やすことであって、決して若者たちの生きがいや働きがいを高めようとするものではない。施しとしての「福祉」を拒絶し、孤高の引きこもりを貫くことこそ、自民党や既成政党の参院選戦略を吹き飛ばし、ここまで歩んできた親たちの生きざまにも衝撃をくらわせ、21世紀の若者の指さす方向に目を向けさせる好機ではないのか。
2013.2.13 西嶋彰