直言曲言 第321回 「虐 待」
「人間愛」「人類愛」ヒューマニズムの訳語である。「人間主義」ともいう。中学生くらいから嫌いな言葉であった。ヒューマニズムそのものが嫌いだったわけではない。文芸作品や映画で「ヒューマニズム」を売り物にする作品が嫌いだった。映画監督などで「社会派作家」というのも嫌いであった。こちらはその監督が嫌いというより、そういう名で宣伝する映画会社や宣伝方針が嫌いであった。大体「ヒューマニズム」などと名乗る作品は「薄っぺら」で内容に乏しく、作者の自己満足にあふれている作品が多く、「社会派作品」というのも通俗的で、本当に鑑賞者の社会正義意識を刺激するものや作者の正義感のほとばしるものは少なかった。
実際にヒューマニズムや社会派の作品が嫌いだったわけではない。ヒューマニズムという言葉がもてはやされ、世の中に人類愛、人間愛が溢れていてもおかしくないのに、現実社会は非人間的で政治は反人間主義的であるという現実を見続けさせられてきたから、ヒューマニズムなどという言葉を信じることができなくなったのかもしれない。私は年をとって、人間が丸くなったり、反骨精神がなくなったと思われるのが大嫌いだが、こうしたあいまいな使われ方をしてきた「言葉」を見直すような考え方は肯定するようになった。ただし「人間主義」のように○○主義というようなイデオロギーや思潮を表すような使い方には納得していない。「主義」と主張するほど一般的に代弁したり味方したりする安易な立場はないと思うからである。
人類愛などの言葉を見直そうとしたのは、本当にこの言葉を大事にするのなら、人間社会での「悪」や「犯罪」というものがなくなるはずだと思ったからである。私が「悪」や「犯罪」と認識するのは「貧困」や「戦争」であり、人間の生存を脅かす「環境悪化」なども含まれる。だから本当にヒューマニズムを標榜するなら、核爆弾は言うまでもなく原子力発電なども支持することは出来ない。ただしヒューマニズムと叫ぶだけで、戦争をなくすことや原発の廃絶ができると思っているわけではない。それでは、私がこの言葉を嫌っていた頃の理由とほとんど変わらない。
最近思ったことは、もっと身近にある「不都合」なこともまともな「人間愛」さえあればなくなるはずだと思うことである。逆にいえば、最近目につく「虐待」や「いじめ」には人類愛のかけらさえないのではないかと思われるからである。引きこもりの相談でもしばしば聞かされる「いじめ」もまともな人間愛さえあれば撲滅できると思われるのである。いじめは最近の統計によれば年間約2万件余。いじめが発生している学校(小学校・中学校)数は約7,000校なので、1校当たり3件程度ということになる。ところで最近のいじめによる自殺事例でも学校や教育委員会は「いじめはなかった」とうそぶいている。全国の学校(小・中)数は約12,000校ある。これらの学校に「いじめ」がないとは信じられない。むしろ1校当たり3件余のいじめがあると考えれば「いじめ」は3万件以上あると考えるのが妥当なようである。
私は「いじめ」というものを少し軽めに考えていたようである。小中学生のクラスメートの中で良くあるような「意地悪」や「シカと」をいじめだと考えていた。だから、この場合、いじめを受けた側もそれほど深刻に考えずに、反撃したり、逆に「無視」すればよいのではないかと考えていた。少なくともこのようないじめグループのいる場を避けて、不登校や転校をするのも一つの方法ではないかと考えた。しかし最近明らかになった大津市のいじめ自殺事件で明らかになった例を見と見ると、加害者側は恐喝ともいえる方法でお金を巻上げたり、お金を払うために万引きを強要したりしている.更に自殺することを強要し、自殺の練習までさせられていたという。こうなると明らかに「犯罪」で、「いじめ」などと日常的な出来事であるかのような言葉で呼ぶこともおぞましい。私の誤解であったとすれば、「逃げればよい」などと考えていたのも申し訳ない気がしてくる。
加害行為がそこまで及んでいたとすれば、「逃げ場」が見つからず自殺まで深刻に考えてしまったというのもうなづける。いじめ問題でもう一つ考えたいのは、わが子がそこまで追い詰められているとしたら、親がどうして救済してやれなかったかということである。普通の親であれば、子どもの日常を見ているのだから、そこまで追い詰められている子どもの様子に気づくはずである。あまり一般的に親を責めていると思われたくないが、ここで考えておきたいのが親というものは本当に子どもの救済者なのかどうかということである。いじめは全国で3万件以上であると推定したが、親による子どもの「虐待」というのは5万件以上あるという。最近の少子化傾向の中で考えれば5%、20人に一人は虐待を受けていることになる。引きこもりでご相談に見える親御さんをそのように考えたくないが、引きこもりの子どものうちの多数が実は虐待を受けている子どもだという想像も成り立つ。
最近思ったことがあるのだが、いじめを受けている子の親が、学校や先生に抗議をしに行ったらしいが、その時相手側が「いじめ」の理由を説明したらしく、親は結局その理由を納得して受け入れ、いじめが正当化されてしまったらしいことがあった。これでは、子どもは親を恨み、親を信じなくなって引きこもるのも当然だと思った。理由がいかに正当そうな理屈で構成されているかどうかではなく、親というものは理屈を超えて子どもの側に立ち、子どもを守ってあげるべきものだと私は思っていた。しかし、虐待というのが5万件を超えているということを考えると、そんなに簡単に親を信じるべきではないと考えた。人間は、生まれながらに母性愛というものを持ち、たとえ遺伝子の相続という利己的な動機によるものであれ、わが子を死を賭しても守るものであるというのは、すでに伝説と化してしまっているのか。自分の、あるいは自分たちの快適な暮らしを守るためであれば、わが子を虐待し、時には死に至らしめてしまうという可能性を考えれば、親がいじめによる死亡から守ってくれるなどという幻想など抱かない方が良い。
引きこもりのご相談に見える親御さんの悪口を言っているつもりはないのだが、少なくとも、このようなわが子を虐待する親と同類視されないように、しっかりとわが子を見守ってあげて欲しいと思う。既に「人類愛」などという牧歌的なことばも通用しない時代になっているのか?
2012.8.2 西嶋彰