直言曲言 第311回 「季 節」
今年の夏は長かった。「3.11」(2011年3月11日東日本大震災)はまだ春先の寒い季節であったが、その後やって来た暑い夏はうるさい蝉の音に加えて、マスコミの過剰なほどの騒音に悩まされた。耳についたのは「地震速報」。独特のサウンドロゴと共に、身を固くしてかまえると震度3程度の遠い地震。余震情報にしても軽い地震をあれほど頻繁に伝える必要があるのかなと思った。とりわけ暑さを感じさせたのが、福島原発事故に絡む電力会社からの節電要請。現在のような電力依存の社会では無視できない停電警告だから仕方がないと思いつつ、原発再稼働の脅しだと思えば余計に腹が立つ節電要請だった。とはいえ、夏の暑さに比べれば冬の寒さの方が堪える私は割と素直に、クーラーの設定温度の要望に応えていた。28度にという要望に対して私は30度でしかも冷房でなく除湿に設定していた。除湿機能がどれだけ電力消費をするのかどうかは知らないが、これで逆に室温が27度くらいになっていた。だからいつもの年に比べてとりわけ暑い夏だったとは思わないが、あの節電要請のコマーシャルが流れている間は暑苦しい夏だと思った。
9月に入って台風12号が超鈍足で停滞し、その後本土に上陸し紀伊半島では川筋に土砂が崩落して「せき止め土砂ダム」が出来るとその後の雨のたびに「ダム満水と崩落」の危険が繰り返された。気象庁のせいかマスコミのせいか知らないが、なぜあんなに「危機感」を煽るのか不思議でならなかった。「ダム崩落」の「危機」そのものは分かるが、まるで今にも崩壊するのを期待しているかのような報道ぶりは、マスコミの事件・事故期待体質が露骨で嫌な気分であった。ダム崩壊は危険で、下流の市民は避難しなければならないが、避難しさえすればあとは見守るしかないのではないか。湖や池はいずれにしてもこのように水の流れがせき止められてできたもので、それ自体天変地異ではない。ダム決壊の瞬間映像を狙う心理は分からぬでもないが、あさましい魂胆が見え見えである。これも迷走した台風15号がようやく去って、最高気温が30度を割った。「暑さ寒さも彼岸まで」と言うがまさにその通り。冬よりは夏の方を好む私だが、ようやくやって来た秋の気配にひと安心した。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(古今集)
風の音の変化に秋の到来を気付くと言うほど繊細ではないが、目に見えぬ物の変化に季節のうつろいに気づくと言うことはある。私の場合、この時期の朝、顔を洗おうとして水道栓をひねると水の冷たさに秋の訪れをはっと気づくことがある。秋はとりわけ好きな季節である。誤解を恐れず踏み込んで言うと、この時期官能的な興奮を覚える。「官能的」ではあるが性的な欲望や興奮とは違う。この感覚を覚えたのは中学2年頃であるから、性的な目覚めは覚えていたのだが、具体的な性的欲望それとは異質な「生的な充実感」ともいうべきものであった。なぜかこの感覚に包まれると私は知的充実感のようなものを覚え、事実この頃から高校2年頃まで2学期の中間試験や期末試験の成績が良かったのを覚えている。と言ってもこの感覚に触発されて受験勉強などしたことはなく、知的興奮を覚えて、受験前夜に徹夜して詩や小説を書いていたことばかりであった。それでもなぜか集中力は維持されていて、首尾は上々であった。
この感覚は冷涼な皮膚感覚から始まって、次に私の嗅覚を刺激した。先ほどの歌の「風の音」ではないが、風の音は間違いなく耳ではなく鼻孔の中に届いていた。そして多分その正体の一部は「キンモクセイ」の匂いだった。当時の私は金木犀の正体を知らず、花も蕾も匂いさえ嗅いだことはなかった。だからこそ、正体不明のその匂いに官能を刺激された。金木犀の木とその花粉を知ったのは何年も経って、結婚し、初めて家を持った時だったが、その時、庭の金木犀がその芳香の正体だと知ったが、既にあの官能的な感覚は呼び覚まされなかった。
いずれにしても私は秋の深まりゆくある日、冷気の中に何事かは分からないけれど、身内の充実する感を覚え、それが私の精神的・肉体的な実際の充実につながり、世俗的な意味で学力や知識、判断力や実行力につながって行ったのは事実である。判断力が正しかったかどうかは分からないけれど、その頃以来、何ごとかを決断することに私は迷わなかったし、その後も重大な決意をしたことに後悔をしたことがない。考えてみれば、13年前、二神氏に誘われてこのニュースタート事務局関西の活動を始めたのもこの季節であった。
もうひとつこの季節を彩るイメージとしてコスモスの花がある。なぜだかわからないが私にとってコスモスとは美しいお花畑ではなく、荒れ地の片隅に咲く野の花のイメージである。野分けというほど厳しくなくとも強めの風が吹き、花全体が大きく揺らぎながら倒れることもなくけなげに咲いている。飛躍したことを言うようだが、悪い環境の中でも清らかに咲いている貧乏人の娘のようで、なぜか応援したくなる清楚な花である。こちらの方は先ほどの官能的な嗅覚のイメージではなく、視覚的な深まりゆく秋のイメージである。それほど確かな記憶ではないが、確か十一月の初め、高校の文化祭の時に校庭の片隅に咲いたコスモスを見ながら語った想い出があるのでコスモスは十一月の花というイメージを持っていたが、最近では8月にもコスモスは咲いているらしい。秋桜の呼び名もあり真夏にはコスモスの花は似合わない。単に品種が改良されたのか、私の記憶違いなのか、花の季節感などあてにならぬものらしい。
私がこの季節、官能的な感覚と同時に肉体的な充実感を感じるのは私が10月初旬の生まれであることと関係があるのかなと思ったりもするが、それにしても中学生時代に初めて感じた感覚が50年以上たった今もまだ残っているとは驚きである。季節感が生きる上での充実感につながるなんて、あるいは私自身による自己催眠であったかもしれないなどとも思う。催眠技法など知らない私だから、単なる自己暗示であったのだろう。いずれにしても特定の季節に充実感を感じるのは悪いことではない。秋に限ったことではないが、そんな季節を持って見ることをお勧めする次第である。
西行法師に「願わくは花の下にて春死なん……」という歌がある。桜の花の好きな人の歌としてよく理解ができるが、さしづめ、私なら中秋の冷気に包まれながら最後の時を迎えたい、ということになるのだろうか。尤も私の場合、この冷気を感じると身内の充実感を感じて俄然、生き延びる勇気が湧いてくるのだから、この願いはかなえられそうにない。
2011.10.03.