直言曲言 第303回 「澱 粉」
私は芋類が嫌いだ。特にさつま芋が苦手だ。66歳になる爺さんが特定の食品が嫌いなどと言うと「なんてわがままな奴だ」と思われそうだが「嫌いなものは嫌い」なのだから仕方がない。ただし、全く口にしないかと言うとそうでもない。いくつか、食べ物が並んでいると、さつま芋は敬遠して他の食品に手が出る。さつま芋しかなければ、空腹を我慢しても平気だ。しかし、もし2食も3食も続けて芋だけであれば、仕方なく食べるだろう。「食べられない」と言う訳ではないのだから、やはり「わがまま」なのであろう。
「さつま芋嫌い」という高齢者には意外といるらしい。聞いてみると戦時中に芋ばかり食わされたから、という理由らしい。私もそれに近い理由だが、少し事情が異なる。私は昭和19年だから戦時中の生まれだが、まだ生まれたての乳児だったから、食べ物など口にしていない。私が芋をよく口にしたのは昭和28年頃。その頃私たち一家は6人家族で浮浪者生活。大阪の釜ヶ崎での貧乏暮らしだった。日払い家賃のドヤ暮らしだったので、毎食が外食だった。金のある日は大衆食堂でご飯を食べた。白米のメシは「小」が20円、「中盛り」が40円だった。みそ汁ひと椀は5円か10円。麦飯ならその半分の値段。これに焼き魚や卵焼きのおかずを付けると1人で50円から100円。一家6人で食事をすると500円程度のお金がいる。お金が少し足りないと麦飯にしたり、こどもたちだけが食事をし、親はどこかで食事を済ませたような顔をして見つめていた。だから、その日の夕食が食べられるかどうかの瀬戸際は300円程度の残金が親の財布に残っているかだったのではないか。その300円がない時にはどうするか?当時、阪堺電車の霞町駅近くにあった「焼き芋屋」さんがターゲットだった。焼き芋と言っても今の石焼き芋のような上品な食べ物ではなく釜の中で蒸し焼きにしたいわゆる「ふかし芋」であった。このふかし芋は安かった。100円ちょっと買えば、一家6人が一応満腹になるほどの量があった。ところがこの食事には問題があった。たまに芋を食うのであればそれでよいが、2日も3かも芋が続くと、胸やけがして芋がのどを通らなくなる。そんな時、少しの塩コンブかたくわんの漬物でもあれば助かる。それに戦時中の食糧事情に詳しい人がいれば分かるだろうが、芋ばかり続けて食っていれば腹にガスがたまる。別に屁をしても、恥ずかしいと思うような感情はなかったので、平気だったが、さすがに芋に食欲は湧かないようになる。偶に食堂で、米の飯を食べる時も、腹が満たされやすいように、おかずはかぼちゃの煮つけなどを選ばせられる。芋だけでなく、カボチャや豆類など澱粉主体の食品は今も敬遠する。その頃、1950年代に比べて、21世紀となった今は食糧事情も随分と変わった。その後我が家の家計が少し楽になっても、当時は肉類などめったに口にしなかった。偶に市場でそうざい類を買うにしても、クジラカツであった。魚は煮つけか塩焼きが主流で、お刺身などもめったに口にしなかった。今では肉食を避けるようにしているのは、家計の問題よりも、脂肪の摂取過多を気にしてコレステロールを避けようとしているからだ。野菜中心の低カロリー食が好まれる。今どき、芋やカボチャが「嫌い」と言うのは時代遅れのそしりを免れまい。20世紀後半を経て、21世紀の今日、世相はがらりと変わっている。20世紀の残渣を引きずる大人たちには、私の「芋嫌い」に限らずずいぶんと「時代遅れ」な人が多そうだ。
私の「貧乏体験」はいろんなところにも書いているが、いずれにしても小学校を卒業せずに、中学校に編入する頃になって、徐々に変わって行ったようだ。何とか飯を、それも白米を三度三度口にできるようになって、人並みの将来を夢見るようになった。前後するが、その頃の夢は「学校」に行くことであった。その頃小学校に縁のなかった私は、単に不登校であると言うより、学校と言う社会システムから排除されており、大人になっても社会人の仲間入りができないような、絶望的な疎外感を味わっていた。まともに育った子どもから見れば、考えられないような「学校に対する憧れ」を抱いていたようだ。私にとってはこの「憧れ」がその後の学校生活にプラスの影響を与えたようだ。だからと言って、他の子にこのような「憧れ」を抱かせるのが良いとは思わない。しかし、学童期に不登校になってしまう子がいたとしたら、親や先生や社会の過度な押し付けが原因に違いないのだから、その原因も分からないままに「不登校」を否定して無理やりに登校させてはならない。おそらくは不登校によって何年かのブランクが開くのだろうが、そのブランクこそがその子の個性や能力を開花させることになろう。
私は引きこもり問題の講演会や、定例の集会において、豊かになった社会が今の子どもたちの要求を変えていると言う。普通の親にはその時代の変化が目に見えない。だから貧しかった自分たちの子ども時代と同じように、自分たちが教えられた「幸福追求」の秘訣を教えようとする。私たちの貧しい時代には学校に通い、先生たちの言いつけを守り、勤勉に学ぶことが優等生になる唯一の道であった。いつの間にやら、学校はそんな牧歌的な養育環境ではなくなった。競争社会を勝ち抜くためには、小学校低学年から偏差値教育の中を勝ち進み、(私立)中学校や中高一貫教育を経て、有名大学を無事卒業して一流企業に就職することこそ人生の勝ち組への切符を手に入れる近道だと思い込んでいた。団塊世代の親であれば、五年あるいは十年の差で、そんな時代を経過してきたかもしれない。今や少子化の世の中。大学進学率は上がっても、三流の私学は定員割れを懸念しなければならない時代。一方大学を卒業しても就職は難しく、超氷河期を嘆く時代。
私たちの時代はまだ貧しくて、言い換えれば、社会に伸び代(のびしろ)が残されていた。高度経済成長の時代が続いていた。ぜいたくを言わなければ、就職は引く手あまた。冷蔵庫や洗濯機、テレビなどは行きわたっていたが、マイカー・マイホームなどは憧れの的。所得はそれほど高くなくても、眼に見えるインフレがローンの先行きを小さく見せた。今の若者はどうだろう。親たちがリスクを負ってローンを引き受けたおかげで、住む家には困らない。良く口にする笑い話では、少子化で次の世代は相続する家が余ってしまうのではないか。おまけに就職氷河期の上、デフレで年金不安。これでは危なくてローンも組めない。こんな時代に明るい未来を夢見ることも出来ない。それでも競争社会の中を勝ち抜けと言うのが親たちの教育方針だろうか。今はもう澱粉を過剰に摂取して、飢えを満たす時代ではなくなっている。
2011.2.16.