NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第310回 「抑 制」

By , 2011年9月12日 5:19 PM

2011年8月28日、日曜日・朝8時40分。高槻市富田丘町にあるニュースタート事務局関西の事務局本部の建物の前には若者たちが続々と集まりつつあった。ニュースタート事務局関西の毎年の恒例「夏の旅行」の出発時間が午前9時に迫っている。私は66歳になる事務局前代表である。高齢である上に、脳梗塞の後遺症で半身不随の身体障害者である。当然のようにこの旅行に参加しようとしているが、私はこの旅行で参加者たちの何の役にも立たないどころか、様々な迷惑をかけ、私が参加することによって参加者たちの華やいだ気分をそぎ、せっかくの旅行気分を台無しにしてしまう可能性も知っていた。それでも私は、私自身気分が浮き立っていた。久しぶりに遠出することの喜びを隠そうとはしていないし、そういう意味ではまさに私は事務局の一員であった。もちろん、事務局の「代表」を後任に譲った時と同様に、若者たちのイベントへの参加を抑制しようと考えたことはある。しかし、私は自身がイベントを楽しもうとするとともに、若者たちの非日常の姿を見てみたいという欲求が強かった。それは確かに年1回のイベントであるのだから「非日常」に違いないのだが、そこに参加することによって見える「日常」でもあった。

彼ら「元引きこもり」の若者にも、毎日生活する「日常」はある。共同生活寮で起居している毎日、鍋の会で談笑する。私もそんな場に出入りし、彼らと顔を合わせるのだが、彼らはいつも普段通りの『引きこもり』の顔をしている。彼らにとって「引きこもり」が日常なのだが、ふといつもと違う非日常の『日常』の顔を見せることがある。どちらが本当の顔で、どちらが仮面なのか分からないが、確かに普段と違う表情を見せることがある。それを見逃すことが出来ないのである。

マイクロバスに乗り込む彼らの顔はみな晴れやかである。確かに元引きこもりとは言え、彼らは寮に入ったり、鍋の会に出たり、既に一歩スタートを切った人々である。身を固くしていたあのころとは違うのは当然である。行先は香川県、満濃町オートキャンプ場「ホッとスティまんのう」水不足に悩んでいた讃岐の民衆の為に弘法大師空海が整備したと言う灌漑用池の満濃池周辺に造られた国営讃岐公園キャンプ場。オートキャンプ場としては指折りの施設整備状況だそうだが、オートキャンプなどやったことがない人がほとんどだろう。いつもの年の夏の旅行なら、遠いか近いかは別として海水浴場があって、とりあえずひと泳ぎという所だが、ここには何もない。何もないわけではないが、金刀比羅宮があるのだが、それは明日の行動予定。広大な敷地の公園があるが、そこで何をするかが分からない。虫取り網持参の親子連れが蝉や蜻蛉を取り始めたが、そんなものを持ってきた人は他にいない。夕食のバーベキューが始まるまでは入浴かお昼寝する人がほとんど。これと言った行動予定がないだけに、日常の素顔が現れる。まして、2泊3日で五十数時間を現地で過すのである。そんな時間を過ごす中で、私は引きこもりたちのもう一つの顔を見つけた。「もうひとつ」というのは引きこもりには「定番」ともいうべき、一つの顔がある。その顔は確かに彼らの顔だが、本当は私は疑っていた。きっともう一つの顔があるはずだ。その顔を見ることを、私はこの旅に期待していた。「定番」の方は見慣れたあの顔である。小心そうに顔を伏せ、めったに目を合わせようとはしない。引きこもりの若者の特質は対人恐怖と人間不信であると考えている。なぜ、そんな感情が彼らの心を占拠してしまうのか。彼らの心情を親御さんたちでさえ、生まれつきの性質か精神病のせいだと思ってしまうらしい。生まれ付き気が小さく内気であったのがこのような性格になってしまったのだと言う。確かに気が小さい、気が弱い。親から見ればそんな性格が気になってしまうこともあろう。そんな気性が何度か人間同士のぶつかり合いの中で、気の強い子、気の弱い子に分かれて行くのではないだろうか。もともとは、優しくて気が弱く見えるのは当たり前だろう。私は生まれつきのそのような性格が一次的な要因で引きこもりを決定づけるとは思わない。

子ども時代というのは誰だって、いろんな性格になる可能性を秘めている。可能性を探索するための宇宙船旅行をしているようなものだ。幼児時代から小学校の頃までは目的意識などなく、遊び体験を繰り返している。一般的に中学に入る頃から、否応なく上昇志向を目指すように仕向けられる。目指すのは「よりよい」未来に向けての「学力向上」である。最近では、中学入学以前から上昇に向けての努力を強いられる。本人にはまだ「目的意識」などないのだが、親の目的意識が強烈なのである。例えば私立中学受験、東京周辺では中学から高校を選んで受験勉強をするのではもう遅い。だから小学校までは遊びを通じていろんな体験をしながら人格陶冶をするという人生プロセスが無理やり中断させられる。勉強すること自体は悪いことではないのだが、目的が受験競争を勝ち抜くことだから、そのすべてが競争成績と評価としてあらわされる。競争に常に勝ち続けると言うことなどあり得ないことだから、いつしか競争に飽いて、競争が嫌いになる。競争させられる相手は同じ人間だから、人間嫌いや対人恐怖となる。引きこもりになるきっかけは、千差万別で、ましてやその環境は人それぞれである。医者になることを強いられた医者の息子もいれば、競争することに何の疑問も抱かない教師夫妻の子もいる。中には、普通に勤勉であること以外望まれていないサラリーマン家庭の子もいる。例外がないのは引きこもりの子のほぼ100%が対人恐怖や人間不信に取りつかれていることだ。それは理解できるのだが、私が疑問視しているのは親や教育環境や社会のすべてが、彼の敵であり、彼は全面的な被害者なのか、それでは彼は「被害妄想」という病的な意識の持ち主ということになる。まんのう国営公園という非日常的な日常環境の中で、私は確かに見た。彼らは振舞いなれた「被害者」の顔を捨てて、私にぶつけてくれた。被害者だけではない、もう一つの顔を。それは競争社会の中で、被害者ではなく、加害者の側にも立ちかねない自らに対する懸念の心情であった。むしろ、私が十数年来見てきたのは、加害者になることを恐れて自己抑制し、自らにストップをかけてきた青年たちの群れではないか。競争の中で、開発されて行く自らの競争能力と見えてくるむき出しになって行くエゴイズムの本質。彼らが本当に恐れているのは、現代社会に適応して行けない無能な自分だけではなくして、過剰に適応してしまう自分なのではないのか。私はふと40年前に出会った全共闘運動の「自己否定」というスローガンを思い出してしまった。

2011.09.12.

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