NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第305回 「ボランティア」

By , 2011年4月11日 5:03 PM

小学校の体育館の倉庫のようなところで目覚めた。跳び箱の時に敷くマットのようなものを重ねた上で眠っていた。東北関東大震災の避難場所の一つらしかった。豚汁の美味しそうな香りが漂ってきて目覚めた。体育館の一隅では炊き出しが行われていて、避難家族が食器を手に豚汁を注いででもらっているところだった。空腹を感じていたので、自分もその列に並ぼうとして気づいた。「いけない。自分はボランティアなんだ」そう思った途端、空腹などは消し飛んだ。そこでもう一度眼が覚めた。薄暗い自分の部屋だった。自分は中学2年以来、もう12年も引きこもっている。この6畳の自室に殆ど閉じこもりきりで、夜中になると階下のリビングルームに降りて行くと、食事が用意されている。まったく無言のまま食事を食べて、また部屋に戻る。さっきはなぜボランティアになった夢など見たのだろう。夢の中では、私は引きこもりではなかった。体育館の中の避難者に向かって、大声で叫んでいた。「入浴の準備ができました。ご希望の方はこちらに順序良くお並び下さい。」それほど複雑な説明ではなかったけれど、口ごもらずスムーズに話せた。引きこもる前に教室で先生に指名されて話そうとすると吃音のように口ごもってしまった記憶も消えていた。だからそれ以来、ほとんど他人と口を聞いたことがない。初めのうちは、父とも話した。やがて父は「学校へ行きなさい。そうでなければまともな大人になれないぞ」と言うようなことしか言わなくなって、返事もしなくなった。母は「ご飯を食べなさい」「お風呂に入りなさい」「着替えをしなさい」のようなことしか言わないので別に返事をする必要もない。夜中にリビングに用意された食事を一人食べていれば、両親とも話す必要がなく、顔を合わせる必要もない。父親とはもう数年も顔を合わせた記憶がない。

ボランティアになった夢を見た翌日、まだ両親がリビングで食事中、降りて行って一緒にテレビを見ていた。そんな時間に、そんな行動をとることは滅多になかったので、父も母も顔を見合わせて驚いていた。「僕は、家を出ようかと思う。」とぽつりとつぶやいた。「家を出る」と言うことと「就職をする」と言うことは両親が私に期待する二大課題だったので、父と母の顔にぱっと喜びの表情がさした。しかし、次の私の言葉「ボランティアをやりたい。東北のどこかへ行く。」を聞いた時、父の表情がぱっと曇り、しばらく沈黙した後、きっぱりとこう断言した。「駄目だ。ボランティアに行きたいお前の気持ちは分かるが、ボランティアってそんな簡単なものじゃないんだ。テレビでも言っているだろ。素人のお前たちが行っても迷惑をかけるだけだ。自分たちの食糧も、宿も、移動手段も自分で用意できる人でなければ、現地の避難民や他のボランティアの人の足手まといになるだけだ。ましてや、お前のようにろくに言葉もしゃべれず、身の回りのこともろくに出来ないような人が行って、なんの役にも立たない。お前は安全なうちに居て、お母さんに面倒見てもらいながら、アルバイトでもして、それで稼いだお金を救援基金にでもカンパしなさい。」父の言うことは、予測できていた。現地で足手まといになるだろうと言うことは、自分でも予測できた。テレビや新聞でも盛んに言っていた。個人のボランティアは、かえって迷惑で受け入れ態勢が整ってない、と。

確かに私の言葉も、その場限りの思い付きだった。父がこのように断言してしまえば、それ以上交渉の余地がないのは明らかだった。母も決して、私の味方をしてくれようとはせずに、父の言葉に頷いている。結局、震災1週間ほどしたある日、ある引きこもりの家庭では親子のこんな対話が繰り広げられたが息子のボランティア志願は取りやめとなり、それまで「家を出る」と言うことが課題になってはいたが、ボランティアを引きとめることによって沙汰やみになってしまい両親公認の引きこもりになってしまったそうだ。これはごく最近、ある母親が私に寄せた相談の実話に私が若干の脚色を加えた作り話である。

ここで私は「ボランティアに行かせればよかった。」などの教訓を述べるつもりはない実際問題として社会的受け皿もない被災現地に十数年引きこもりを続けてきた息子を送りだせるかと言うと、かなりの勇気がいるだろう。食事や宿や交通費もとなると、一体いくらのお金を持たせれば安心なのだろう。「無一文の素人ボランティアは足手まといだから」とのネガティブキャンペーンも随分張られていたように思う。だがボランティアとは基本的に素人でプロフェッショナルなボランティアなどと言うものはないだろうと思う。

今の若者が、社会参加の機会を見つけられず、大縄跳びに飛び入りできない子どものようにためらっているのは、参加の動機付けが不十分だからなのだろう。昔我々が子ども時代は十分に貧しかったから、中学や高校、あるいは大学を卒業すれば就職するのが当たり前であった。今は親たちが豊かになり、中卒で就職する人はほとんどいないが、たとえ大学に行ったとしても、就職氷河期であるいは偶然にもどこかの求人に引っ掛かったとしても職種選びの必然性はない。私は、思想的にも自衛隊や警察官は好きではないし、消防士にしても肉体的な危険に身をさらすような職業は考えたことがない。しかし、今の世の中お金儲けのために一生の仕事を選ぶとしたら、自衛官や警察官を選ぶ方がよほど「やりがい」を感じるのではないか。

阪神淡路大震災の時にも、多くの若者がボランティアに駆け付けた。実際に神戸市内で見かけた彼らは、茶髪で耳や鼻にピアスを付けた一見不良少年・少女のような若者が多かった。おそらく、その頃からフリーターと言われるような定職にも付けていない若者だったのではないか。学生や予備校生あるいは若いサラリーマンは何をしていたのか。彼らは淀川一つ隔てた大阪府下で、そこでは翌日から何気ない日常が繰り広げられていたが、忙しく勉学に仕事にと立ち働いていた。ボランティアなど彼らの関心事ではなかった。やるべきことがない、あるいは見つからない若者にとって、初めて赫々たる使命感と共に何をなすべきかを教えてくれるのがボランティアではないのか?報酬の有無や損得・安全性を基準にボランティアを忌避するのは大人の知恵だろうが、そんなことをしていれば本当に若者たちの力を借りなければいけない時代になって、若者たちにそっぽを向かれるようになるかもしれない。たとえ原子力発電所が暴走してもその沈静化作業に若者たちは一人もボラティア協力すべきでない。

2011.04.11.

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