NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第298回 「もう一度」

By , 2010年9月6日 4:37 PM

1998年に第1回の「引きこもりを考える会」の例会を開いたのだから、もうすぐ満12年になる。最初は二神能基理事長の講演会だったから私も含めて何も知らなかったことになる。しかし親たちは現実問題としての子どもの引きこもりの実態を知っていたことになる。二神氏はいくつかのキーワードを残して去った。そのキーワードを頼りに翌月から例会は開かれた。質問者は実態を知っていた親たちで、答えるのはほぼ何も知らなかった私であった。それでも例会は12年も続き、今も参加者は尽きない。二神氏が残したキーワードの的確さもさることながら、私自身も概ねの問題点を捉え損ねず対処してきたものだと思う。臆面もなく自慢げに言わせてもらえば、私自身の社会認識が適切であり、見当違いの処方を排除して来れたからだと思う。見当違いと言えば、まず最初に引きこもりの本質を見抜くための、心理学や精神医学的な解釈の排除であった。

それでも12年も経って、今でも『これで良かったのか』『これで良いのか』と思うことはある。と言うのは初めてやってきた親たちが、ニュースタート事務局の風評を聞き、それを頼りにしていながら、少しも私の原理的な説明に耳を貸していないことがあるからだ。親が耳を貸さないのは良いが、本人の状態もおいそれとは回復しない。引きこもりは、親の言うことを聞くかどうかは別として、現実に親以外の人とコミュニケーションを取っていないのだから、親が耳を貸していなければ、引きこもり本人に良い影響が現れないのは当然かもしれない。

私は「引きこもりは病気ではない」と主張してきた。これは引きこもりを「病気(精神病)だ」と決め付けることによって、精神科医以外の不可触領域に閉じ込め、自然治癒や自己治癒から遠ざけようとする『専門家』たちの悪意を感じたからである。病気には病因があるのだから、病因の除去なしでは自然治癒はあり得ないだろうが、精神的な疾患である以上自己意識による克服抜きでは「治癒」は望めないと直感したのである。いきなり治癒の話になってしまったが病気であろうとなかろうと病的な状態であるとしたら、必ずその原因があるはずであり、その原因を突き止めなければ、その原因を除去できない。健全に生れて来たはずの子どもがなぜ不健全な精神状態に陥るのか?私はそれを仮説的に社会的な成育史に求めるが、その辺で多くの親とは考え方がすれ違うことがあるらしい。

「社会的な成育史」と言った途端、「社会が悪い」と言う考えがよぎるが、それは「社会主義的」な見方であると言う考えが支配してしまうらしい。あるいは社会的な影響であるとしたら「それは仕方がない」と無抵抗な姿勢を示してしまう人が多いのだが、私はそうは考えない。社会的なシステムに欠陥があるとしたら、それは私たちの責任であり、改善できるのであり、改善しなければならない。それが私の基本的な考え方である。

人は誰でも幸せを求める。子どもが生まれたら、子どもの幸せを祈るのは当然である。残念ながら今は資本主義社会である。それは自由主義であり、競争社会である。幸福を実現するための手っ取り早い手段として、富の獲得と蓄積がある。生まれながらに、親の富や資産に恵まれた人もいるが、今の日本は上下の5%ほどを除けばほとんどが「中流」なのである。つまりそこから覗けば『あと少し』の努力で「勝ち組」に潜り込めるように見える。その身近な手段は「学歴社会」にのりおくれないことである。おそらくはそこまでは誰もが考えることであり、普通の発想法であろう。競争社会を金儲けに利用する人が出て来たのが悲劇の始まりかもしれない。つまりお金を支払えば競争に勝てると言うことを誰かが教えてしまったのである。それはもう自由ともいえない、お金に拘束された不自由競争である。

この社会で「お金」は私有財の最たるものである。その私有財を投じたにもかかわらず思うような成果が得られなかった時、理不尽な気持ちにさせられるのだろう。「勉強する」ことや「進学する」ことを悪いこととは思わないのだけれど、それを他人を押しのけてやり遂げようとする気持ちは、実はあさましい行為なのである。その後ろめたさがいつかどこかで表れてくる。それが引きこもりだと思う。だから、引きこもりは公正で正直な心の表れである。そういった他人を押しのけて競い合うことに全く無自覚な人は引きこもることさえしない。後ろめたさを感じるのは良いのだが、相手にもそうした他人と競い合う心があると知ったら、それが恐怖心となる。そこまでは人間として当然の気持ちの動きである。

ところが気がついてみると両親も学校の先生も、こうした競い合いの恐ろしさに全く無自覚である。彼ら自身競争社会で何十年生きて来て、恐らく生れて来て競争社会以外を知らないのだろう。社会化すると言うことは、人間としてうまく生きていくということは、こうした弱肉強食の世界で他人の上に立って生きていくということなのだろうか。この自問自答に対する答えは別として、この時点で他人と混じり合って、他人と友だちになって生きていくという道は既に見失っている。このことは大変な喪失なのだが、両親はそれに気がつかない。そもそも両親は、そのような気持ちになる資質を失っている。喪失感そのものを喪失しているのである。子どもの素朴な感覚をまるで異常心理か何かのように思ってしまう。だから引きこもり始めた子どもたちを心療内科や精神科の医者に委ねようとする。

精神科の医者やカウンセラーに人間洞察力や自然科学的な技量が備わっていれば良いのだが、彼らは高々数年大学の医学部で、平均的な人間と指数化すればやや偏差値の異なる人間を選別することを学んできただけの専門家である。そうした偏差値の異なるグループは、時として平均的な人間たちの安寧や静謐を乱しがちである。彼らは国家資格として、そうした人々を隔離したり、沈静化する資格を与えられている。彼らが使う隔離病棟としての檻や、鎮静剤や、病状診断力は国家が与えた「暴力」にすぎない。国家が承認する競争や試験にストレスを感じる人たちを彼らは、異常値扱いをして既に恥じないほど彼らの病は膏肓に入ってしまっている。引きこもりたちが彼らの神経が均衡を保つにいたった時、精神科医の約半数は隔離されるべきかの診査にかけられるべきであろう。それだけ精神科医の、薬漬けや廃人化への魔の手から抜け出してきた人が現実に多いということを知るべきだろう。

2010.09.06.

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