直言曲言 第299回 「不登校」
12年間も引きこもりの若者の様子とその親たちの言い分を聞き続けていると、どちらが本当のことを話しているのか、どちらかが相手を欺こうとして偽者を演じているのか分からなくなることがある。もちろん私なりの経験で『このケースはこういう場合が多い』と仮定して推論し、話を聞き進めるのだが、時折、その『仮定』を外して虚心に話を聞いてみようとする。例えば、親は「幾ら話しかけても返答してくれない」「朝、起床せず、昼過ぎに起きてくる」「食事は一緒にとらずに自分の部屋に持って行って一人で食べる」とか、「引きとめて話し合おうとすると暴力をふるう」などとそれ自体は明らかに子どもの側に問題がある現象の数々をあげてくる。少し話を聞いていくと、「精神科の医者に連れていき、投薬の結果」「暴力行為が始まった」そうだ。服薬そのもので暴力が始まったのではなく、むしろ一定期間服薬の末、薬をやめようとして、断薬中にパニック症状が現れ、親に対する暴力が始まったと言う。向精神薬でも鎮静剤でもいわゆる覚せい剤でも、習慣性や依存性があり、そこから突然「断薬」しようとすれば禁断症状やパニック症状が現れることは我々素人でも知っている事実ではないか。それを、「薬をやめようとするからパニックが起きる。服薬を続けさせなければ」と考え、飲料やみそ汁などに薬を混ぜ、本人には知らせず、騙して服薬させ続ける。実は私には、知人の医師から仕入れた断片的な知識しかないのだが、このように騙して薬剤を服用させている以上、そこから発生する様々な異常や副作用は親とそれを許している主治医に全面的な責任があると思える。
引きこもりの症状や経過は概ねこのようなものであるが、精神科の受診とその副作用が引きこもり症状の重症化やこじれの主な原因と主張したいわけではない。多くの面談歴から競争社会の中での過酷な叱咤から競争嫌悪が起き、それが社会不信や人間不信を引き起こし厭人・離人を経て、様々な神経症を引き起こすものと考えている。親はもちろん我が子に対する愛情から、競争社会における十分な競争力を付けてやりたいと思うのだが、その過剰な愛情すら親に対する不信感の引き金になってしまうようだ。精神科の受診そのものが重症化のきっかけになったとしか思えない親に対して私は「そもそもなぜ精神科を受診させようと思ったのか?」と聞く。親は「不登校になったからです」と平気な顔で答える。私は親と子の間に「暗くて深い淵がある」なぁと思ってしまう。「不登校になったから精神科を受診させる」親はそのことに何の疑問も抱いていない。おそらくその子は自分が「学校へ行きたくない」ことが精神科を受診させられる理由だとは思っていないだろう。親も精神科医もその行為を異常なこととして扱い、その異常の原因を探ろうとして様々なテストを受けさせようとする。結果として病名など不明なままに薬を処方され、薬を拒んだら本人に内緒で飲食物に混ぜて服用させられる。ますます社会に対する不信感も同様に親に対する不信感も昂じて口を利かなくなると、それ自体が異常なこととして扱われる。これでは不登校になると最初から引きこもりからの逃げ道もないことになる。不登校と言うのはそれほどいけないことなのか?学校制度と言うのはそれなりの有効性はあった。経済活動の面から見ても国民の初等教育水準がどのくらいなのかは、国の生産力の指標となるであろう。第2次世界大戦敗戦後あらゆる生産設備や資源ルートを失って、産業再建の基盤として教育立国や地域再生の手段として教育立県などが唱えられたのもうなづける。しかしおそらく1970年ごろを境に明らかに教育への投資が過熱し、大学の増設や受験産業の隆盛期を迎えた。戦後わずか数パーセントに過ぎなかった大学進学率は高度経済成長期を通じて10倍近くに伸び、産業の伸びがまた大学卒業生をどん欲に吸収していった。「駅弁大学」とは当時(1960年代)の大学新設ブームを評した言葉で、駅弁のある都市の数ほどにある急造大学を皮肉った言葉だが、やがてその数は駅弁を超え、各駅停車の駅にまで大学が新設された。60年代末からの全共闘運動は、その当否は別として「自己否定」をスローガンに闘われたように大衆化する大学教育に対するアンチテーゼの戦いでもあった。しかしその当事者でもあったはずの団塊の世代は10年を経て親になった時、自分たちが「必要悪」として押し付けられた受験勉強を「幸福へのパスポート」を手に入れる手段として子どもたちに押し付け始めた。
私自身は大阪のスラム釜ヶ崎で育ち小学校を卒業していない。不就学児一掃運動に救われ中学から編入させられた。学校と言うものに強い憧れを抱いていたのであるから、当時の教育熱に批判的な眼など持ち得なかった。しかしそこで展開された熱狂的な進学競争は同時代の伴走者には「気の毒な」友人たちの姿として目に焼き付いている。彼らがこの進学競争、受験戦争に嫌気がさしてそのレールから外れようとする不登校を私は非難できない。1998年「大学不登校を考える会」としてスタートした私たちの引きこもり支援活動は、大学不登校者の先駆者としての小・中・高の不登校者を、精神科を受診させるような異常者として扱うことは出来ない。他人を押しのけてでも、わが子の席を確保させようとする親にとっては良心的兵役拒否者にも等しい不登校は異常に見えるらしい。異常なのはどちらであろうか?もちろんその親に加担して不登校者を病人扱いし投薬や隔離をしようとする精神科医も異常社会の番兵に違いない。明治以来近代日本の成長を支えてきたらしい教育制度も「近代」を突き抜けた途端に、社会を崩壊させるような競争システムになり果てたのである。
不登校は言うまでもなく後に「引きこもり」に直結する。しかしそれは「良心的兵役拒否者」たる不登校者の声に耳を傾けず、ただ単にあるがままの学校に服役させようとする不登校撲滅派の親や教師によって加速されている。20世紀の中盤まで社会の繁栄を推進する中心システムであったはずの学校教育が、世紀末から21世紀にかけて社会の内部を瓦解させる競争システムとして告発を受けているのだ。その告発者が不登校者なのだが、多くの親や教育者たちは旧制度の守り手として学校に戻ることのみを最善の目標として掲げ続けている。そしてそれが兵役拒否者としての引きこもりを増大させ続けている。不登校は撲滅するべき対象ではなく、むしろその声に耳を傾け、いかに今の学校教育が歪み続け、知識を学び、人間の連帯をはぐくむシステムから遠ざかり、社会の崩壊要因の一つになり始めているのか、それを知るべきバロメーターのひとつとして、大切にされるべきではないだろうか?
2010.10.13