直言曲言 第279回 「卑怯者」
「卑怯者(ひきょうもの)」「臆病者」「裏切り者」などは相手をののしる時に使う言葉である。時代劇などでよく使われる。最近は時代劇そのものがあまり人気がないせいか、死語のように使われなくなっている。「○○者」と言う言葉は「おどけ者」「小心者」「バカ者」「食わせ者」などと数限りがない。しかし罵倒される方としては先にあげた三語の方が衝撃が強いのではないだろうか。私も特に「卑怯者」と言われるのが嫌いだ。これは私の父の教育の成果かも知れない。父も卑怯者と言われるのをひどく恐れていた。おそらく父は誰かに「卑怯者」と言われたことがあり、それを後悔していたのかもしれない。○○者と言う言葉は人をののしる言葉であり悪口には違いないが、最初にあげた三語は特に期待をしていた相手が期待に反した行動をとった時に吐かれる言葉のようだ。期待を裏切られたという思いが強いだけに感情を込めて言われることが多くて、それだけに衝撃が大きいのだろう。
「死語」のようになっていると思うのはあまり耳にしなくなっているからであり「卑怯者」と言う言葉を耳にしないのは「卑怯」と言う言葉自体が概念の実態を失っているか、人が「卑怯」などと言われないようにふるまうようになっているからではないか。卑怯者と言う言葉は広辞苑などで引くと「心が卑しいこと」などと書かれているがただ「卑しい」と言うだけでなく当事者が「正義だ」と信じているようなことに背く行為をすることであると思う。だから卑怯者と言われたくない人は「正義」に「背く」ようなことをしなければ良いのだが、手っ取り早いのはそもそも「正義」など信奉しなければ良いのだろう。「あの人は正義の味方だ」などと思われなければ、たとえ正義に反することなどしても卑怯者等と言われなくとも済む。そのようにふるまう人が増えているのではないか。さびしいことである。
私はかつて「卑怯者」と言われたことがある。私は昔「釜ヶ崎」に住んでいたことがある。釜ヶ崎は大阪南部のスラム街であり、日本有数の貧民街だと言われていた。私はそこで少年期を過ごし、小学校へも行けず、「不就学児一掃運動」と言うのに救われて中学校から編入を認められた。私は長く学校と言うものに憧れていたので中学校では勉強や先生の言うことに熱心に耳を傾けた。おかげで2年生の時には学年で1番の成績で、大阪市で表彰されたことがある。「貧しい暮らしの中で親や弟妹を助けながら優秀な成績」であるというのが表彰された理由である。実態は別として、釜ヶ崎でそんな表彰を受けたので当時の新聞やラジオ・テレビで取り上げられ一躍二宮金次郎のような有名人になった。なにしろ成績が良いということだけでなく、当時はまだ「西成暴動(昭和36年)」以前の釜ヶ崎での「美談」であり、私はまるで「聖人」のように扱われた。特に、これは私自身が感じていてジレンマのようにプレッシャーを感じたことだが、釜ヶ崎のような存在自体が社会悪であるような街を「解放」するような社会運動に身を投じなければいけないというプレッシャーであった。事実その当時の中学の同窓生の中で私の親しかった友人は「釜ヶ崎の教師になるんだ」と言って進路を選んだ。私はと言えば小学校にも行っていなかったくらいだから、早く釜ヶ崎から脱出して外から釜ヶ崎を改革したいと思っていた。そんな風に脱出願望が強かったので、釜ヶ崎の中で見聞きすることには関わるつもりがなく、どんな悲惨な事態やかわいそうな出来事があっても目をつむっていた。今でも覚えていることだが、ちょうど大阪市の表彰を受けた頃、近くの通称「三角公園」を散歩していると公園の周囲の一角にある旅館から若い全裸の女が飛び出して来て「助けてーっ」と言いながら全力疾走していった。すぐに若い三人組の男が追いかけて、ものの1分もしないうちに全裸の女を取り押さえ、旅館の中に連れ込んだ。私は50メートルほどしか離れていない所でその光景を目撃し、立ち尽くしていた。中学生の男の子である私には、若い女の黒々とした陰毛だけが衝撃のように目に残った。この光景を見ていたのは私だけではなくおそらく30人は下らない人が見ていただろうが、驚きの声をあげた人も一人もなく、もちろんその後警察の捜索が入ったなどと言う話も聞かなかった。
おそらく拉致された若い女が強姦されそうになったか、麻薬でも打たれそうになった。男たちはたぶん暴力団だろう。犯罪が行われそうになっているのは明らかだった。釜ヶ崎だからと言ってこんなに明らかな犯罪行為が平気で見過ごされるわけではない。だけどほんの一瞬の出来事だった。私以外にも見ていた人はいるのに、誰も声を出さなかった。もし誰かが助けに入っても、誰もそれを助力はしなかっただろう。警察に通報すれば警察は何とかしてくれたはずだが、釜ヶ崎では警察に味方をするような人は少ない。むしろやくざや暴力団を見逃す方が釜ヶ崎での生きざまであった。しかし、若い女は明らかに被害者であった。その犯罪の結果、女の身の上に起こるであろうことは明らかであった。私は何事もなかったかのようにその場を立ち去りながら、心の中で「卑怯者」と言う言葉を何度もつぶやいた。
そんな私の日常のふるまいを観察していた友人がいたのだろう。中学を卒業して、高校を卒業したとき同窓会が開かれ、中学時代の友人Sが私の顔も見ないで「卑怯者」とつぶやいて去った。このSはやはり釜ヶ崎の住人で成績は中の上くらいだが、中学の頃から「資本論」を読んでいるという噂だった。Sにあの事件の顛末を目撃されていたとは思わない。ただ成績優秀で「聖人」扱いされていた私が利己主義者だと見抜かれていたのではないかと背筋を冷たいものが走った。その後私は卑怯者と思われたり、言われたりすることに極端に恐怖した。「聖人」扱いはその後止んだが、一方で私なりの「正義感」は膨らんでいった。卑怯者と思われないために、正義感を隠すというわけにもいかなかった。卑怯者と言われないために、出来るだけそんな現場に近寄らないようにするだけだった。
私は臆病者である。圧倒的な暴力に素手で立ち向かうほどの勇気はない。いろんな人生を歩み続けてきたけれど、相変わらず大きな勇気はふるえそうにない。だけど裏切り者にはなりたくない。卑怯者だと思われたくない。だからと言って不正義に目をつむったり沈黙したりもしたくない。正義に反することを目にした時に小さな勇気でも声を上げることができるように仲間を作りたい。仲間を作るために声をかけるだけのほんの小さな勇気だけは持ち続けたい。私はそんな勇気もないような卑怯者ではないのだ。
2009.10.27.