直言曲言 第277回 「クイズ 」
私は4年前の9月27日、脳梗塞を発症して半年間ほど2つの病院に入院した。左半身不随と言う後遺症が残り、今も車いすや杖に頼る生活である。遠方に移動するときにはいつも妻の運転する車に乗せてもらい、妻の介助に頼っているが、妻の援助を感謝しつつも自然なことと受け止めさえすればさほど不自由と思うこともなく、平静心を取り戻しつつある。左半身不随は脳血管の梗塞により、運動神経をつかさどる部分が侵されたためだが、妻を通じて脳神経の先生に聞いたところによると、私がやられたのは「脳幹部」と言うところでかなり危険な部位であったそうだ。生命の危険と言う意味もあるのだろうが今では生き延びていて、差し迫った生命の危険もなさそうだが、脳幹部と言うことで脳機能そのもの、とりわけ知的能力や記憶力が減退していないかどうかが気になる。脳梗塞の後遺症と言うのはもともと知的な後遺症が心配されるのか、私もリハビリテーションの過程で「あなたは何歳ですか」とか「今日は何月何日ですか」と言うような単純な質問をされたり、簡単な足し算などのテストを何回もやらされた。最近でもリハビリのために通っているデイサービスセンターで「1・2・3・4・5と親指から順番に折って下さい」「6・7・8・9・10と小指から順番に開いて下さい」と幼稚園のお遊戯のようなことをやらされる。幼稚園のお遊戯と言ったけれど実は私はこれが苦手。左半身不随の私は左手でこれが出来ない。右手も子どもの時にけがをした障害のためにやはり出来ない。介護福祉士さんの号令に合わせてゆっくりと両手を「二ギニギ」とさせるのがやっとである。「脳トレーニング」の時間には小学生向けのような足し算のテストも盛んである。
そんなテストをさせられるくらいであるから、クイズやパズルの類も大いに奨励される。身体的リハビリはなかなかやる気にならないのだが、脳トレーニング中でもクイズやパズルは退屈しのぎになるので結構好きである。家でもクイズ番組は昔から好きであった。NHKの「二十の扉」や「私の秘密」はラジオ時代やテレビ草創期の人気番組であった。クイズ番組はかなりの視聴率が取れる人気番組らしく、その後もいつの時代も「名作」と言えるようなクイズ番組があった。「アップダウンクイズ」「クイズ・タイムショック」「クイズダービー」「アタック25」…。最近の人気は「平成教育委員会」や「クイズ・ヘキサゴン」らしい。クイズ・ヘキサゴンでは簡単な問題に珍答を繰り返すに「おバカさん」と言う名前が付けられ「おバカタレント」なる流行も現われた。クイズに答えきれないタレントを「おバカ」扱いすることは以前からもあった。クイズダービーでは回答者別に「オッズ」と言われる倍率が設定され回答者の得点がそれぞれの倍率に加点されるというのだ。当時の回答者で漫画家の「はらたいら」や「お嫁さんにしたい女優ナンバーワン」であった竹下景子はいつも倍率「2」か「3」。おバカさんは倍率が「10」近くであった。回答者とは別に回答者を選んで得点を賭ける客がいて、賭け点にオッズを掛けた点数を獲得する。他の回答者はオッズが10倍であれば賭け点の10倍の得点が得られる。オッズが低いにも関わらず、はらたいららはいつも正答率が高い。どうしてこんなことまで知っているのだろう、と思うほどの博学ぶりであった。
回答者と賭ける客がいる二重構造になっていることや、おそらくオッズを設定する大橋巨泉ら司会者やプロデューサー陣、こうした多重構造が番組の人気の秘密だったのだろう。それに比べて最近のクイズ番組は単純なようだ。クイズ・ヘキサゴンは司会の島田紳介の毒舌と毒舌にへこたれないおバカさんタレントのあっけらかんとしたやりとり。平成教育委員会は司会のビートたけしの真面目な司会。出題されるクイズはあまり「ひねり」があるとは思えないストレートな学習知識。○×私立中学○○年度入学試験問題など。有名私立中学の入試問題など「おバカタレント」には解けるはずがない。回答できるのはタレント教授や最近増えている東京大学卒や京都大学卒と言った高学歴タレント。おバカタレントの「おバカぶり」を笑いものにするのは昔からあったテレビ手法。だが今のは視聴者の偏差値信仰にそのままおもねり、入学試験の落第者をバカにするようなやりくち。
私は引きこもりの大量発生の第一の原因に「豊かだけれど出口のない競争社会」を上げている。若者の中で最も見えやすい影響として「受験競争」に追い込まれて精神的ストレスに陥ることを上げている。安易に理解すれば、私が「入学試験」に反対し「受験勉強」に反対しているかのように思う人がいる。私は若者が勉強することに反対したことなどないし、そこで努力することに反対などしない。親たちはそこでのアリバイを主張することに必死で、有名進学塾に通わせたことも予備校に通ったことも「親の強制」ではなく子どもたちの「自主的な選択」であったと主張する。子どもたちには単に「上昇志向」がありそれを望んだだけである。親たちは貧しさの中で苦労した原体験があり、子どもたちには社会的に有利な立場に立たせたいとの気持ちがあり、子どもたちの競争を無言で後押しする。競争社会を是認した上での自由競争と言う名の、際限のない血みどろ競走へのいざないである。
20世紀後半、社会主義政権の崩壊によって「自由主義」が勝利したかの幻想が広がった。市場をめぐる「自由」と言う名の争奪戦が是認された。「自由」と言うのは世界史的にも認められた絶対的な概念に近い。ただし、自由が認められるのは平等なスタートと公平な手段を前提にしてである。勝者の自由やスタートラインの線引きまで自由に認められるわけではない。自由と言う名の言いくるめに負ける予感のした親たちは、子どものためと言う大義名分のために自らの犠牲によって子どものためのハンデキャップをお金で購おうとする。有名学習塾も私立中高一貫校その一つである。
民主党が子ども手当とともに高校の授業料無償化を打ち出した。高校進学率は98%に及び引きこもり家庭で授業料無償化の意味を実感を持って受け止める人は少ないと思う。貧困家庭や母子家庭で家計のために高校進学をあきらめることなどに想像力が及ぶだろうか。中途退学や家の事情で大学進学を諦める人々の存在が理解できるのだろうか。授業料無償化は大学を含めた教育無償化の初めであり、貧困の世襲化を防ぐ重要な歯止めであり画期的な政策である。クイズ番組の変質やおバカさんを笑いものにするやり方の変化の中に、偏差値的な格差の固定化やそれがどこからやってきているのかに目をつむろうとしている兆しを見つけ、秋風に寒さが募る今日この頃である。
2009.10.19.