NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第266回 「絶望ですか?」

By , 2009年6月22日 2:41 PM

引きこもり支援活動を始めてもう11年、少なくとも1000例以上の引きこもりを見てきたことになる。ただし最初の1年くらいの経験から引きこもりについての認識を改めたことはない。つまり引きこもりという症状はどれだけ症例の経験を積んでもあまり変化がないということになる。不思議に思うのは引きこもりになるきっかけは様々であるのに、症状は例外なく対人恐怖や人間不信である。きっかけと症状の間に因果関係が認められないことがある。これはまさに現在の社会環境の特徴や引きこもりの定義ともいうべき症状なのかと納得している。もう一つは親子関係。親子関係も色々で何不自由のない親子関係、両親が離婚した世帯、片親が死別した世帯など様々な類型がある。しかし相談を受けた段階で例外なく親子の対話は断絶している。「第三者の助けを必要とする」理由である。

最初のころ戸惑ったのは「精神病事例」。精神科医の斎藤環氏が『社会的ひきこもり』という本を出版して評判になったせいか、引きこもりの親たちの間に精神科医の診断を受けることが流行となっていた。私たちのもとに訪れる人も「精神科で分裂病と診断されたのですが精神病なのでしょうか?」と尋ねる。その頃私のパートナーをしていた心理カウンセリングの経験者は「西嶋さん、精神病の人は相手にしない方が良い」と言っていた。それが医師法違反に問われるからなのか、精神病は扱いにくいからなのかは分からない。「私は医者ではないから精神病かどうかは分からない。引きこもりとして扱うだけだ。」とパートナーを斥けて対処した。

「精神病」とは何なのだろう?私は大阪の貧民街の釜ヶ崎出身であり精神病的な症状はよく知っている。釜ヶ崎と精神病に何の関係があるのか?と思う人は幸せな人生を送ってきている。精神病は抑圧された人生を送る人、貧しい環境に住む人に多い。夜中に奇声をあげる人、昼日中にぶつぶつと声を出して独りごとをしゃべる人も多かった。不思議なことにそんなことで病院に入れられる人も警察に拘留される人もいなかった。たいていは一人ぽっちであり、常識を逸脱した行動も咎める人はいなかったからである。引きこもりが咎められる理由の一つである社会的常識の「逸脱」に「他人に迷惑をかけるな」というのがある。多少の偏狭な言動はともかく、自傷他害などの暴力行為は防がなければならない。一時的なパニックなら警察のお世話になることもできる。親も本人が冷静な時には理性で話しかける。引きこもりが親の理性で引きとめられるのなら、ニュースタート事務局に相談しに来る人などいないだろう。引きこもって何年も経つのに、アルバイトや仕事の話を持ち出すたびに狂乱して話が通じない。親は「精神病に違いない」と思って精神科の門をたたくらしい。精神科医とて、安易に精神病の診断を下しているわけではない。分裂症の診断を受けたが、別の医者に診てもらうと「病気ではない」と言われた事例は山ほどある。その逆の事例もある。

精神病と神経症の中間だという「境界性人格障害」という診断もある。神経症は誰にでも起こりうる神経性の過労によるストレス症状であり、一時的な錯乱やパニックを招くこともある。これと精神病が判別がつかないとして境界性人格障害などというあいまいな診断をする。三大精神病として最も重大な精神病である精神分裂病は2002年「統合失調症」と名前を変えた。分裂病が精神が分裂してしまって「不治の病」との印象があることから、一時的な「失調」である印象の統合失調症と名前を変えた。医学界では科学的な診断による病気であるかのように言っているが、精神病に自然科学的な診断などない。血液検査やレントゲン、脳波検査など再現性のある科学的検査ができない。いくつかの経験的な症候に頼っているに過ぎない。それも親や身内がコミュニケーションに絶望して医療に頼ってくるからである。精神科医は閉鎖病棟での拘禁や電気ショック、薬物療法を信じているわけではないが、他の治療法が見つからないからそれを行っているらしい。拘禁や薬物療法とはとりあえずパニックなど他人に危害を与えるのを防止しているのに過ぎない。私は拘禁や薬物療法に反対しているわけではない。副作用の危険を指摘しているのでもない。抑圧によるストレスを除外したり、寛解する可能性を閉ざしているから支持できないのである。

ニュースタート事務局関西では訪問活動をニュースタートパートナー(NSP)が担っている。訪問活動が100%の成果に結びつくわけではない。「5年間も自宅から一歩も出たことがない。両親とも一言も口を利かない。」という人も鍋の会に出てきてくれた。今では複数の人が共同生活を経て社会参加を果たしている。統合失調症の診断を受けていた人も、何人もが鍋の会参加や共同生活をこなし、社会参加を果たしている。統合失調症が治ったという意味ではない。統合失調症を私たちが治療したというのでもない。そもそも私たちは統合失調症だと認めていない。精神病だと認めるということはコミュニケーションが絶望だと認めることではないか。絶望だと認めてはNSPによる訪問活動などできない。私は「引きこもりは病気ではない」と言っている。「病気ではない」とは「精神病ではない」という意味である。「コミュニケーションを諦めない」という意味である。もちろん個々の引きこもりが精神病であるのかないのかは分からない。だから「引きこもりは病気ではない」とは私の仮説である。しかし私にとっては頑固な仮説である。「諦めたくない」のである。

長く鍋の会に参加しているのに打ち解けて他人と付き合えない人がいる。毎回誰かに誘われていやいや出てきているのではない。にこにこ顔をしているのではないが、鍋の会を苦痛に思っているのではないらしい。ときどき私はぞんざいな口ぶりで声をかける。相変わらず無愛想だが私の依頼にこたえる。笑顔やコミュニケーションは不慣れで苦手らしい。共同生活寮に入寮して1年を超える寮生がいる。さすがに友達もできて新しい友人宅に外泊したりすることもある。ときたまだが私の問いかけに素直に応える。私はもう十分に社会復帰ができるほどに回復できているのではないかと思う。ただ、両親とのコミュニケーションだけは素直にできないらしい。両親の方がいまだ心を開いていなくて、本人を引きこもっていた時と同じように扱うらしい。つまりは精神病であるかのように話が通じない、絶望であるかのように扱い続けている。私たちには話が通じるのに、話が通じないのはご両親の方ですか。ご両親は精神病ですか?

2009.06.22.

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