直言曲言 第252回 「類 型」
人は物事を識別するとき、過去に経験上知っているものごとの類型と比較して識別するものである。だからそのものと類似したものやことを経験したことがなければ識別のしようがない。この季節、天気予報を見ていれば「西高東低」の天気図がよく表れる。シベリア地方に高気圧があり、北海道沖のオホーツクや太平洋に低気圧がある、いわゆる冬型のパターンである。等圧線はちゅう密であり日本列島を縦に分断し、日本海からの寒風が吹きすさぶ。等圧線のパターンを分類し、それを西高東低と呼び、冬の季節風が吹く天気図を「冬」と認識しているだけで、冬にはいつもこの天気図であるとか西高東低の天気図は寸分たがわぬ「合同」図形であると思っているわけではない。このパターン認識、つまり類型認識は人の認識手法を助けてくれる。ただし、類型認識の手法を正しく用いなければとんでもない誤解を生みだしたり、誤解しているということ自体を気づかなくさせたりする。
よくある例は「血液型占い」である。最近は『A型自分の説明書』などのシリーズがベストセラーになっている。科学者でなくても少し理性的に物事を考えられる人なら「血液型と人の性格の分類には何の根拠もない」などと説明できるが、血液型の話題は若い女性などには人気の的で、いちいち真顔で否定してみるのも面倒くさくなる。私が根拠はないだろうと類推するのはすべての人の血液型をA型、B型、O型、AB型の4パターンで説明できると考える短絡さである。血液型を何百種類も何万種類もに分類できるのなら、あるいは血液型と人の性格に関連性を発見できるのかもしれない。なにしろ現在の血液型占いでは「人の性格を4つに分類などできない」と類推はできるものの「全く関連性などない」とも断定できない。「科学的根拠などない」と分かっているのに「A型の人は几帳面である」とか「B型の人はおおざっぱである」などと言われると、なぜか「当たっている」ように思わされ、ついつい信じ込まされているのである。つまりは「几帳面」とか「おおざっぱ」というのは誰にでもある二面性、多面性を指摘しているだけで排他的な性格規定ではない。
「自分のことは差し置いても、他人のことを心配してしまう」などというのも誰にもありがちな思考法で、しかも決して悪い性格とは言えないので、「当たっている」と思ってしまうだけである。つまりは人間に普遍的な性格を勝手に分類しているだけで、信じているのはそういう錯覚を利用された人だけで、一般の「占い」「易者」なども同じ原理である。この類型が多数になると見抜きにくくなる。
たとえば世論調査で数千人の調査をするだけでその一万倍以上にもなる世論の動向を把握することができるが、かといって一人の調査をすればその10倍の10人の意向が把握できるかと言えば無理である。これも経験的に把握された調査理論であり、サンプル数、倍率、母集団、サンプル抽出方法やアンケートの質問形式にまで決まりがある。
私は幼いころからの犬好きであり、たいていの犬に出会うと傍により可愛がるが、見知らぬ犬との出合い方にもコツがある。大型犬でも小型犬でも、出会ってすぐに向き合い突っ立ったまま目を見つめ、いきなり頭をなでようと手を出したりしてはいけない。向こうもこちらを注視しているだろうから、腰をかがめてむしろ無関心のふりで目をそらし、おもむろに親しげに顔を見て、手を出せば敵意をもたれることはないだろう。尤も、これで絶対大丈夫だというつもりはない。私の場合、これで手をかまれても犬好きだから、犬を恨みに思ったりしないだけである。どちらにしても、犬にも初対面の人間にどう対処するかのパターンがあり、これはワン・パターンではないらしい。
人間のパターンは無数にあり、簡単に4つの血液型などで分類できるものではない。しかし、引きこもりについては確かに共通の特徴があり、定例会などでそのように言うと「うちの子は他人と違って…」とか「人間は十人十色で…」「千様万別なので…」のように反論しようとする人が多い。こちらは引きこもりの共通の特徴について述べているだけであり、「すべての人は…」などと言おうとしているのではない。当然、その方の子どもについてもどのような特質を持っているのか知ろうとするわけだが、引きこもりについての説明会に来ていながら引きこもりの「定義」ともいうべき説明を拒否していては、認識を共有することができない。「うちの子は特別だ」という認識はあらゆる類型化を拒否する姿勢で支援機関に相談する価値がない。
類型化と言えば引きこもりのある種の類型化について悩んだことがある。引きこもりというのは社会的不適応の一種で青年の心理状況である。社会学的にも医学的にも特異な状況であるかどうかは他の類例を調べて類似性があるかどうかを検証するのが普通である。私が知る限り、引きこもりには他国からもたらせられるような類似例はなかった。精神科医の斎藤環氏は「引きこもりは儒教的な家族道徳がもたらせた成年期独特の精神状況」という仮説を立てた。私もこの仮説にかなり傾いたのだが、その後一・二年の間に、中国や韓国からの学術施設団に面談する機会を得て、儒教国だと知られている中国にも韓国にも引きこもりに類似する青年現象はないということが分かった。斎藤環氏の方でも儒教背景説を確かめるために韓国に実地調査を行ったようで、仮説を裏付けるような事実はなかったようだ。いまわれわれが直面している「引きこもり」という現象はどの他国にも類例のない、不思議なあるいは日本固有の現象だと分かった。
それでも科学的な解明を求めようとする人は、現象のもとになる原因を解明しようとする。私はルイス・ベネディクトの「菊と刀」にある「日本人の『恥の文化』」という概念に行きついた。しかしその『恥の文化』が引きこもりの唯一の原因だとは考えない。引きこもりについては約十年の臨床例とのお付き合いの成果として十いくつの原因的な背景を挙げることができる。外国の臨床報告の中から類似例を発見することはできなかった。だからと言って、これを日本固有の青年現象だと声を大きくして叫ぶつもりはない。それはただ、日本という地理的条件の中で日本的経済条件、日本的社会条件、日本的教育環境、日本的家庭環境の下で現われた一つの特異な現象にしか過ぎない。近年、冷静に突き放した目で眺めるといろんな国で部分的に類似した事例があらわれていることがわかる。類型化にこだわり過ぎると却って見えなくなることがある。類型化全否定してしまうとせっかく見えてくるものも見えなくなる。
2009.01.31.