直言曲言 第251回 「No」
「『No』と言える日本」は1989年に出版された東京都知事であり作家である石原慎太郎とソニーの創設者である盛田昭雄が共同執筆したエッセーの署名である。当時プラザ合意の後の円高誘導などアメリカ経済の影響を多大に受けていた日本産業界の意見を代弁したような本書はベストセラーになった。確かに、第二次世界大戦後アメリカに占領された日本はその支援により復興し、その中で隆盛した買弁資本家とその走狗たる保守政治家は何事に限らずアメリカの言いなりになって来た。日米安保条約や核の傘などもその一つであり、沖縄は言うまでもなく日本内地においても米兵に凌辱されたり殺されたりする犠牲者も少なくなかった。「アメリカが風邪をひくと日本がくしゃみをする」と言われた格言も言い得て妙で、今でもウォール街の株価下落は翌日の兜町の日経平均に連動するほどでサブプライムローンの破たんとやらも確実に日本の不況につながっている。
私はかねてからアメリカに『No』と言えない日本を歯がゆく思っていた。しかし石原・盛田両氏は『No』と言える理由について「今や日本は半導体技術についてアメリカに教えられるほどの強国になった」と言っている。これでは強国や大国でないとNoと言えないのか?弱小国や発展途上国はNoといってはいけないという理屈である。半導体技術のソニーだからの発言でもあるが、日本企業の経営トップやタカ派政治家の石原らしい権力的発想法である。
Noという拒絶は時には必要な言葉である。力の大きな物や強いものの言いなりになっていてはいけないからである。しかし、逆に強い立場にあるものが、常にNoと言って弱いものを拒み続けることは力の濫用となる。自由主義という概念の中には、この力の強弱における力の抑制という道徳観念がないらしい。たとえば5歳も年の離れた幼い兄弟がいるとする。喧嘩をすれば当然兄の方が強い。母親は「あなたはお兄ちゃんなのだから」と手加減を求める。ところが兄の方は「自由平等」という概念だけを持ち出し攻撃を続ける。ガザを攻撃し続けるイスラエルのようで、これでは国連である母の調停も役に立たない。
今、不況による労働者の解雇が相次いでいる。中でも派遣社員という不安定就労の労働者の解雇が問題である。不安定なのだから、解雇されたら次の就労の見通しが立たない。多くの人は、社員寮などの住まいからも追い出され、即座に生活が成り立たなくなる。そもそも派遣労働という制度が問題であり、とりわけ未熟練労働である製造業への派遣を認めたことに問題がある。製造業への派遣禁止が問題になると、それを逆手に取るように大企業は製造部門の派遣社員の大量解雇を打ち出した。派遣社員の解雇が問題になるとそれに理解があるような顔をしていたコメンテーターは「不況で解雇する企業側には責任がない」などと言い出した。またしても企業責任を認めない自由主義社会の論理である。社会主義社会では労働者の権利はもっと認められていた。しかしこれは自由主義か社会主義かの問題ではない。人間社会の問題である。労働者は労働力という人間存在と不即不離の商品を販売しなければ生きていけない。つまり継続的な雇用関係が保障されていなければ多くの労働者は生きていけないのであり、企業が労働者を雇用し働かせられるのもこの人間社会の根本的なルールの上に成り立っている。つまりは資本主義下による企業の成立も、労働者の生きる権利の承認なしでは成立しないものである。つまり労働者は雇用されて働かなければ生きていけないし、企業は労働者が働いてくれないと存続しえない。
派遣解雇の問題だけではなく、若い人々の就職問題も経済社会が成立する為の大前提でなければならない。近年は、企業の利益防衛と称して、企業が製造拠点を海外に移し、安い海外労働力を購入する一方で、国内の若い労働力を切り捨てている。フリーター問題や派遣など不安定労働に追い詰められた若者が無差別殺人に走ったりするのもこうした若者切り捨ての施策の結果である。先ほどのコメンテーター並みの論理でいけば、企業が収益を追求するのは当たり前で、高い人件費を払って国内労働力を雇用などしなくて良いことになる。確かに不景気になり赤字に陥った企業は安閑として社員を採用などしてはいられないかもしれない。しかし、サブプライムローンの破たんを契機にして金融危機が広がり、赤字決算を余儀なくされた企業が登場したのは昨年の9月以降にすぎない。それまで数年にわたり史上空前の好景気を誇り、何年間も利益を内部留保として積み立ててきたではないか。利益は内部留保し、赤字になるとすぐに労働者の解雇、新規就労者への拒絶では安定した社会は期待しえない。不安定な社会では企業の収益や持続可能な繁栄は不可能である。事実、前回の円高・ドル安の経済危機やその後のバブル経済やバブル崩壊の結果、企業の若者就労の拒否によって、就職冬の時代や就職氷河期がやってきてそのことを大きな社会背景として「引きこもり」の大量発生があったことを覚えていないのだろうか.あるいはそのことを教訓として何も学ばなかったのだろうか。彼らが学んだのは危機においても自分たちの企業を防衛することだけ。労働者派遣法の改正によって、製造業にまで拡張した派遣労働者の問題が不安定労働者の拡大と今またその大量解雇を生み出している。
「持続可能な社会」というのは口先だけの格好の良いスローガンではない。お金だけが幸福のバロメーターだと思ってきた人も、社会が持続的でなければ幸福が味わえないではないか。世界がいかに繁栄しても核戦争で世界が破滅してしまえばそれでお終いである。企業収益がいかに最高を記録しても人々が疲弊しきっていればどんな栄光が待ち受けているのか。世界は微妙なバランスの上に成り立っている。そのことに気付き始めた人は多い。
無自覚な企業は多い。個人も同じ。「自由」という概念を履き違えっぱなし。しかし、それをコントロールする為に「政府」というものがあるのではないか。その政府が「自由」を振りかざして、力のある企業や個人に人々を苦しめる「No」という「自由」を認めては政治を安心して政府に任せておくことはできない。「No」という言葉は力のある人にだけ与えられた拒絶ではない。むしろ虐げられた側にこそ拒否権はあるのだ。この拒否権を自覚せず、苦難を跳ね返す勇気を持たなければ永遠に沈みつづけることになるだろう。モノを買うことも、どこかで働くことも本当は我々にこそ「No」という権利があるのだ。どんなに苛酷な政府にも「No」という権利はあるのだ。この地球と人類の為に「Yes」と言い続けるために「No」と言える勇気を持とう。
2009.01.27.