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直言曲言 第285回 「年 末」

By , 2009年12月28日 4:06 PM

いよいよ今年も最後になった。この一年間も10日に一回ずつ月に3本「直言曲言」を書いてきたので今回が36本目。別に本数をノルマにしているから律儀に書いてきたわけでなく、ほとんどこれが生活のリズムになっているので、読者にも無理やりお付き合い願っている。10日に一度書いているので生活のリズムになっていて、普段は何を書くかについて悩むことはほとんどない。タイトルが思いつかないときは、とりあえず空白にしておいて日常生活の感想などを日記風に書き始めれば、何しろ考えることと言えば引きこもりの問題か、若者たちをめぐる社会現象のことばかりなので、自然に引きこもり問題の論評が出来上がる。偶に、気負いこんで「名論文を書いてやろう」なんて思うと却っていけない。何日もテーマが思いつかずパソコンのスイッチを点けても、むなしくインターネットサーフィンばかりやっていることがある。今回も書くことが思いつかず、こんな時はこれまでと同じく、季節ネタでも書こうかと書き始めた。

何しろ寒い。冬って毎年こんなに寒かったかなと冬のことを思い始める。この季節・冬。クリスマスが近づく。その次には年末がやってきて、その次はお正月。お正月には千葉県に住んでいる二女が帰省し、孫たちがやってくる。私にとって孫たちの帰省は一大イベント。いくら大イベントでも「孫の帰省」などという個人的なことを書くことはできない。季節感のことを書こうと思っていると、60年近く前に大阪の天王寺公園で野宿をしていたことを思い出した。私の得意な「貧乏ネタ」である。野宿を始めたのは夏の終わり頃であった。やがて修学旅行の季節、中学生や高校生は昨夜の「まくら投げ合戦」のせいでか寝不足。おまけにバスに揺られて体調不良。天王寺公園での昼食タイムだが、食欲も無くお弁当に殆ど手がつけられない。手付かずで捨てられた弁当は公園の浮浪者や浮浪児の胃袋に。昭和30年前後だから、いまだ「飽食の時代」には遠く弁当のおかずも大したものはなかったが、白米のメシだけはうまかったのを覚えている。住居は公園の西側、戦争中には砲台と防空壕があったといわれるコンクリートの高台の上、藤棚の柱と柱の間に荒縄をつるし、その縄に蓆(むしろ)をかけて風除けの壁を作った。何しろそのころは、のちにホームレスの住まいとして有名になるブルーテントのようなものはなかった。あとは天井であれ、床であれ、新聞紙や段ボール、ボロ切れ、ありとあらゆるものを敷き詰め、ぶら下げればとりあえず一夜は過ごせる。当時私は10歳に満たず、その野宿生活は父親・母親・弟妹たちと一緒だったので不思議に心細さや惨めさは感じず、むしろそのころ公園内の大阪市立図書館分館で読んだ「家なき子」の主人公レミと愛犬カピの運命に胸を痛めていた。私自身そんな境遇にあったのに、小説の主人公に同情するようなゆとりがあったのだろう。修学旅行生の食べ残しの弁当をあさっていたからではないだろうが、私は両親と野宿をしながらどこか修学旅行のようなうきうき気分で暮らしていた。しかし、それも夏の終わりまでやせいぜい11月の声を聞くまでのことで秋も深まり木枯らしが公園のイチョウをほうきのように枯れさせてしまうころになるともうたまらない。昭和29年の暮れ、私たち一家は天王寺公園から南西へ0.5キロほどのところにある釜が崎に住まいを移した。そこは日本一のスラム街であり、四畳半一間の部屋が一日300円で借りられた。一家六人であったが、家具も何もないわれわれにとってとりあえず雨風がしのげる部屋はまるで天国のようであった。一日300円であるが、一ケ月にすると9千円。今でこそないだろうが、当時にすればちゃんとしたアパートでも借りられる料金であった。敷金もない保証人もいない流れものには一日300円でも贅沢は言えない住まいであった。それ以来、釜ヶ崎は私が大学に入るまで私の故郷になった。

「家なき子」に感動していた私は10歳を過ぎもう少し難しい本を読むようになっていた。この時期に思い出すのはディケンズの「クリスマスキャロル」だ。強欲な半生を送ってきた主人公が友人の幽霊に告げられ3つの夢を見る。貧しい周囲の人たちのさまを悟らされ、主人公は慈悲深い人に生まれ変わる。敬虔なクリスチャンにとってはクリスマスの夜に読むにふさわしい心温まる美しい物語だろうが、そのころまだ釜ヶ崎の厳しい現実を生きていた私には空々しい話に思えた。それよりも私の胸を打ったのはアンデルセンの童話「マッチ売りの少女」だった。貧しい少女は大みそかの寒空のなか靴もはかずに、町中をさまよい燐寸を売っていた。マッチを買ってくれる人は誰もいず、このままでは怖い父がいる家にも帰れずふるえていた。寒さに耐えかねてマッチを一本すれば、闇の中に死んでしまった優しかったおばあちゃんの幻影が語りかける。雪の降る大みそかの夜が明けると街かどにすべてのマッチを擦りつくし、凍え死んだ少女の遺体かあったが、街の人は誰もそれを知らず通りすぎる。

知らない人はいないくらいの名作童話だが「マッチ売りの少女」と言えば今や劇作家別役実の芝居や野坂昭如の小説を思い浮かべる人も多いのではないか。偶然なのか、どちらかがどちらかを模倣したのかストーリーは似ている。もしどちらかがどちらかをまねしたとなれば発表年の遅い野坂の方となるが、盗作の話も出ないほど野坂の小説も名作で、当時の世相を反映した「ありそうな話」だったのである。1977年発表の野坂の小説によれば、舞台は大阪釜ヶ崎の三角公園。私の一家が天王寺公園から流れてきて4畳半一間を一泊300円で借りたあのスラム街の一角から70メートルほどの場所にある公園である。貧しい女はマッチを売って生計を立てていたが、そのマッチを擦って明かりが消えるまでスカートの中をのぞかせていたのである。アンデルセンの童話のように季節に触れていたかどうかは忘れたが、当然のように寒い冬だったと思っている。スカートの奥をのぞかせるのだから、当然ノーパンでなければならない。さぞや寒かったのではないかと同情を禁じ得ない。しかし模倣説を避けるためか、リアリティを裏付けるためか三角公園をモデルにしているが、20年以上前から私に言わせれば、三角公園にはそんな少女が出没していた記憶はない。1960年以降であれば、マッチを売るよりもそのものズバリの売り買いをする女が横行していたし、売れないからマッチの暗い光で照らしていた老女しか見かけなかった。大みそかを前にして、マッチ売りの少女が凍え死ぬのを憐れんだ天国のおばあちゃんが三角公園に舞い降りて、やはり哀れなホームレスの男たちが幻の秘所を見たのだというのが私の新説である。男たちによるとそこは桃色の光に包まれていたという。

2009.12.28.

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