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直言曲言 第280回 「第5階級」

By , 2009年11月9日 3:58 PM

「貧富」。貧困と富裕である。つまり貧富とはもともと相対的な概念であろう。しかし絶対的な貧困と言うものもある。アフリカなどの低開発国の戦争難民は生きていくのも困難な食糧危機にさらされている。日本でも第2次世界大戦後のある時期多くの人々は生きのびるのが難しいほどの飢餓に襲われていた。飢餓からの立ち直り過程においてさまざまな競争が行われ相対的な貧富の差が生まれたと言える。それでも今の日本では飢えて死ぬというほどの絶対的貧困は影をひそめ、生活保護や母子家庭に対する手当などセーフティネットが張り巡らされるようになった。私は引きこもりの原因を説明するときに「豊かだけれど出口のない競争社会」と言う言葉を使う。誰もこの言葉に反論してくれない。まるで「貧困」などない社会だと言っているのだと思われはしないか?不安でならない。

絶対的貧困が影を潜めた今、逆に相対的な貧困が問題になる。格差社会である今日、問題なのは相対的貧困なのである。相対的貧困とは何だろう。OECD(経済開発協力機構)によると「もっとも裕福な階層の半分以下の所得しかない層」でその「半分以下の階層の比率」をその国の相対的貧困率と言うそうだ。OECDは元はヨーロッパなど西側の経済的統計を扱う団体だからそれでよいかもしれないが私はこの定義には不満だ。所得が半分だというのは良いが資産の問題はどうなるのだろう。所得が同じでも広大な土地を持っていたり、お城のような家に住んでいる人と高い家賃を払っていたりローンの債務を抱えている人とは同じではないだろう。私が考える貧困とは欲しいものが手に入れにくい人たちである。

引きこもりの人たちはどうであろうか。現代はどんな時代なのか。今は学校を卒業しても就職しにくい時代である。年金問題や地球環境問題など前の世代から押し付けられた「負の遺産」に包囲されている。私は引きこもりの原因として「今の若者は希望を奪われている」と言う。希望を奪われている、と言うことは欲しいものや欲望をあらかじめ奪われているということである。「欲しいものが手に入れにくい」のが貧困であるとすれば、希望や欲望がないということは「貧困ですらない」。この感覚は分かるだろうか。同じ貧困状態なら絶対的貧困度は同じだろう。しかし一方は世界全体がモノ不足でそもそも欲しいもの自体が不足している。それに対して身の回りには欲しいものがあふれていて、貧しいので手に入らない。私はそんな貧困を体験したことがある。昭和30年台の終わりころだったと思う。私は大阪の釜ヶ崎に住んでいて、もちろん貧乏だった。しかし日常は近所の公設市場に買い物に行っていた。そこにはたいしたものは売っていず、八百屋や豆腐屋に行っても激しい渇望感を感じることはなかった。あるとき地域のはずれに有名スーパーの一号店と言うのが開店し、私も思わず行ってみた。その時の衝撃は今も忘れない。店内に一歩足を踏み入れると「眩暈(めまい)」を感じた。美しい包装のメーカー食品や缶詰が棚いっぱいに並んでいた。今ならスーパーマーケットに加工食品が並んでいるのは当たり前だが、その頃はそんな食品があること自体が驚きであった。私の感じた眩暈と言うのは戦後のアメリカ映画を見た一般の人が電化製品に囲まれたアメリカ人の生活に感じた眩暈と同じではないか?自分の生活とあまりにもかけ離れたものを見ると、人々は欲望を感じる前に眩暈を感じてしまう。

この喪失感と言うのは飢餓体験や食品に対する欲望に限らない。何度か述べているように私は子どものころ貧しくて小学校へも行っていなかった。同じ年頃の子どもたちがランドセルを背負って学校へ行っているのを見ると羨ましくて仕方がなかった。私は生計を助けるために始めた駄菓子屋の仕入れをするために約30分の道のりを電車賃を節約するために歩いた。朝、駅のそばを通ると小学生くらいの子どもたちが駅の改札口を定期券をかざして通り過ぎて行く。私にはその定期券が私の前に立ちはだかる城壁の入場証のように見えて激しい渇望感を感じたのを覚えている。

引きこもりは希望や欲望を奪われていて、自分の今の生活では考えられない職業生活や社会生活には眩暈を感じてしまう。いわば引きこもりは慢性的な眩暈の持続なのだ。彼らは物質的にも精神的にも欲望や希望を失っていて、残念ながら喪失感も飢餓感もない。欲望がないのだから、喪失感もないと言ってよいのかもしれない。いわば貧困以前の状態なのだ。現実には引きこもりの親たちはほとんどが中流家庭であり、その子どもたちは飢餓体験などまったくないのだが、彼らに飢餓体験などさせたら、飢餓の経済的意味や社会的意味などを考える前に親を逆恨みしてしまう子がほとんどだろう。

この一年ほどはサブプライムローン問題やリーマンショックなどから経済不況が一層強まり、派遣切りなど雇用問題が深刻なのだが、この雇用問題に最も敏感であるべき引きこもりの青年たちは「蛙の面に小便」状態で、全くの無関心だ。おかげで「反貧困ネットワーク」や「ワーキングプアー」と言った運動や団体に強い関心を抱くべき彼らには「階級意識」がないため貧困問題には全く無関心である。王侯・諸侯を第一階級、貴族・僧侶を第2階級、市民・ブルジョアジーを第3階級とすれば、無産階級・プロレタリアートは第4階級である。ところが彼らはこの第4階級でもない。いわば第5階級なのだ。本来なら、就職することもできず、市民にもなれない、将来プロレタリアートとして最下層の生活を送らざるを得ない人々であるが、その自覚すらない。

少し前の昔、「都市流民」とか「デラシネ(根なし草)」と言われたルンペンプロレタリアートがいた。「フーテン」と言われた路上にたむろする遊び人たちも同じである。彼らも定職を持たなかったり、生きる意味を見失っているように見えたが、高度経済成長期のゆとりの中で生存を許されていた。彼らはついにその自覚を持たないままに過ごしていたために、社会的矛盾としての存在意義さえ失い、「ちりあくた」としてどこかに吹き飛んで行ってしまった。

引きこもりは社会的な病理ともいうべき「青少年の排除」がもたらした社会の傷口である。青少年もいずれは老いる。傷口もいずれはかさぶたとなる。傷口はいずれふさがるけれど、傷を生み出した社会の病理が消え去ったわけではない。私たちは社会的ひきこもりの支援はしているが、傷口を見えなくしてしまうのに協力しているのではない。かさぶたのように、第5階級を歴史の中に埋没させるのを断固拒否する。

2009.11.09.

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