NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第275回 「自 信」

By , 2009年9月23日 3:48 PM

引きこもり問題にとって親なんて何でもないと思っていた。子どもが引きこもりになることについて親は強い自責の念を持つが「そんな影響力もない」。私はそう思って、親に免罪符さえ与えてきた。「親はなくても子は育つ」この諺(ことわざ)は長く語られてきて間違いのない事実だろう。私は「親のない引きこもりは見たことがない」とまで言ってきた。見たことがないのは事実だが、親のない子が引きこもりになるほど生きる力を失っていたら、私たちに会うまで生き延びてこられたかどうかは分からない。

私たちは多くの引きこもりに会ってきたが、親のない子どもと言うのはなかった。片親の子はたくさんいた。離婚した両親もいた。父か母かに死別したという子もいた。離婚にしても死別にしても父や母との別れが引きこもりのせいだとは思わなかった。もちろん、そういう片親の子も引きこもりから回復し、元気に暮らしている。引きこもりは回復しうるのだ。片親でも親がいなくても、引きこもらずに立派に生きていけるのだと主張するために私はこの信念を変えるつもりはない。しかしある種の子どもにとって、親の離婚はうずめがたい心の傷を与えてしまうということは認めざるを得ない。子どものいる夫婦が離婚するなら、子どもが3歳くらいまでか子どもが成人してから離婚しなさいと言いたい。

結婚は男女による性愛の結びつきである。それが恋愛の結果であれ、お見合いの結果であれ大きな違いはない。恋愛は互いの思い込みがある分、結婚すればそれが永遠の結びつきだと思い込みがちだ。今のように晩婚傾向になると簡単に離婚したりしなくなるかもしれないが、それだけは喜ばしい可能性であるようだ。私が学生の頃、まだ一・二回生の若いカップルが多かったが不思議に4・5年もすると別れてしまう人たちが多かった。その人たちの相性が良くなかったのかもしれないが、客観的に考えてみれば、若くて経済的な収入も不十分であったろうし、若くて燃え上がった恋愛は互いの性格や相性も未熟で他の魅力的な異性に出会うと自分たちカップルが永遠に結びつきあうべきものとも思えなくなるのかもしれない。

私が幼いころ、両親の結婚生活も不安定だったようである。私が4歳ころ、母は弟を背中に負い、私の手を引いて海の見える坂道を下って行った。長じてから思い出せばそこはバス停で3つも4つもあるバス道で、当時バス代ももたないから長い道を歩いていたのだと思う。坂道を下りきった海辺の町で母はあらかじめ目星を付けていたらしいある旅館に入って行った。母はとある部屋の戸を開け放った。私の目に入ったのは慌てふためいた父の姿と、下着姿の若い女だった。当時母は三人目の兄妹である妹を孕んでいた。考えてみれば父はまだ40歳にも満たなかった。父の肩をもつ気はさらさらないが、そんな年代の男に女房以外の女の色香に迷うなと言っても難しいのかもしれない。両親に離婚の危機があったのはそれから1~2年後。父の浮気問題が後を引いていたかどうかは知らないが、父は失業しており経済的に不安定な時代であった。一家は九州の母方の親戚に間借りしており、父は肩身の狭い生活をしていたらしい。離婚を決意したかどうかは知らないが、父は単身で関西へ戻って職探しをするつもりで子どもをどうするかが話題になっていた。幼い弟妹は母のもとで暮らすことが決まっていたが、長男の私は本人の意思に任された。母や弟妹と離れて暮らすのも辛かったが、父はこのまま一人で生きていくとなると、「あまりにも可愛そうである」と思った。結局私は父についていき、しばらくして父と母は何の手続きもなく無事に再婚生活に入った。結論だけ述べるとハッピーエンドの話だが、当時まだ学齢前の私には片親になったり、その片親からも「捨てられてしまうのではないか」と言う大層心細い思いをしたものである。大人になって男女の機微も多少分かるようになってからは、夫婦が離婚することにもだいぶ理解ができるようになった。と言うか、愛情が冷めてしまった夫婦が形式的な結婚にしがみついているのはむしろ滑稽だと思うようになったが、幼い子を持つ夫婦が別れてしまうことには自分の経験からも絶対に反対であった。

「親はなくても子は育つ」は私の信念であり、従ってこれまで離婚した片親に育てられたケースでも離婚が引きこもりの原因などとは考えなかった。親は往々にして、離婚がその原因ではないかと悩んでいる節があったが、私はきっぱりと否定した。だが最近遭遇した2つのケースは私の「信念」を揺るがせるものであった。偶々、それは離婚した父親のケースと母親のケースであった。話を聞いていると、離婚が子どもに与えた影響を否定しきれない気持ちになった。これまでのケースでは引きこもりの原因であること自体を否定していたので、離婚の原因などに興味を持たなかったし、その離婚した親も離婚の原因など話そうともしなかった。偶々であったのか、最近遭遇したケースでは離婚した原因が相手の行為によってであることが比較的詳しく語られた。私はもちろん離婚の原因がどちらの「非」にあるかなど無関心であるわけだが、かなり詳しく語られた相手の「非」を聞いているうちに、「この人は離婚によってかなり傷ついているな」と感じざるを得なかった。そのことが残された子どもの引きこもりに影響を与えていると認めざるを得ない。

二つのケースでは子どもは当然「喪失感」を持ち、昨今流行りの「発達障害」とは違うが「不全感」を抱いたまま生育していると思った。つまりは本来あるべき親が失われ、その「欠落感」が生きていくという「自信」を失わせ。人間不信や引きこもりにつながっているのではないかと思えるのである。それは残された親自身が心の傷を負っており、子どもに生きていく自信を与えるような心のゆとりを持てていないように思える。これまで見てきたケースでは離婚した片親は、離婚の自責感からむしろ子どもに過剰なくらいの愛情を注ぎ、その結果子どもがわがままになったり、親との共依存になるケースはあったが、離婚が直接の原因とは思えなかった。子どもは生育の過程で、誰かに愛されていることの確信によって、生きていく初源的な力を確信する。未成熟な段階での親の喪失はその生きていく力の未獲得段階で不安感や人間不信などを増大させていく。子どもが3歳未満なら、親の記憶もなく、片親やその他の周辺の人の愛情によっても生きていく自信を獲得できるだろう。それ以降、人格形成がなされる最低12歳くらいまでは親を取り上げるべきではない。それは12歳なのか15歳なのかは分からない。物理的な成人年齢まで待つ必要はないかもしれない。しかし、引きこもりの発生年齢を考えれば、それは25才や30歳を超えるかもしれない。離婚をするなら子どもを産む前にお早目に。

2009.09.23.

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