NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第272回 「八 月」

By , 2009年8月21日 3:42 PM

私自身のつたない人生を振り返るまでもなく「戦後」は64年を迎えた。私は昭和19年10月3日、敗戦の前年生まれで64歳。奇しくも「敗戦」後と同い年である。おそらく私くらいの年齢になるといつの生まれの人でも「社会の様相はずい分と変わったな」という感想を持つのであろうが、この64年間は他の時期の1世紀にも負けないくらいの大きな変化があった時期ではなかろうかと思う。先日の8月15日「戦没者追悼式典」のテレビ中継を見ていた。追悼の祭壇の前に老夫婦が進み出た。天皇・皇后両陛下であるが、どこか私の見慣れたお姿と違う。私の記憶していたのは昭和天皇ご夫妻である。少なくとも20年以上前で、すでに相当のご高齢であったが、今見る天皇夫婦のお姿もかなり高齢で、20年余の歳月は突然時空を越えて飛び去ったかのような錯覚を持った。

64歳と言っても敗戦直後のことは知る由もないが、ものごころが附いてからでも60年。日常生活のありようはすさまじく変わった。最初はなんと言ってもアメリカ化が家庭の様子を変えていった。米国の漫画やのちに見るテレビドラマでアメリカの家庭生活を見させられ、あこがれた。まず大型冷蔵庫。中にはフレッシュなジュースや冷えたミルクがいつも入っていて、夢のような生活に思えた。冷蔵庫にジュースや牛乳が入っていることなど今では何でもないが、当時は考えられないことだった。ミルクと言えば脱脂粉乳をお湯で溶かしたものやジュースと言えば粉末の人工甘味料の舌触りを思い出してしまう。輸入物らしいバヤリースのオレンジジュースにしても100%天然果汁のものなどはずい分後世になってからで、最初は5%か10%のジュースを人工着色料や甘味料で薄めたものだった。家電ブームが起きて、「3種の神器」(冷蔵庫、洗濯機、テレビ)などと言われたものだが、これらはすべてアメリカが早くから実現していたものだ。最初は全てアメリカの物まね、いやアメリカが日本を格好の市場として売り込んだものだが、昭和40年代には日本経済もかなりの高度成長を遂げ有数の裕福な国になり、それからでもさまざまな新製品が街にあふれた。今私たちの身の回りにあるものを見回しても、昔は見たこともないものであふれている。まず私の目の前にある「パソコン」パーソナルコンピュータ。コンピュータ・電子計算機は知られていたが、昔はずい分大型であまり役に立ちそうもないものであった。大企業や大学には置いてあって、リール式で回転していたのは計算装置であったのか計算結果をプリントするものであったのかよくわからない。1980年頃には国産のパーソナルコンピュータが普及しだし、コンピュータ言語を習った人が簡単なプログラムを組んでくれて名簿の配列を直したり、重複する人名を除外してくれて感心していたものだ。考えてみれば、簡単な関数電卓でもできる計算であったり、今ならエクセル一つではるかに難しい作業がこなせる。パソコンを使う人にとって、今やベーシックやコボルなどというコンピュータ言語など無縁で各種のソフトが複雑な作業に導いてくれる。この20年ほどの間でもPHSや携帯電話の普及は目覚ましい。いや、PHSなどもうないか?このPHSや携帯電話は大人ではなく、子どもから普及したという点で画期的である。大人が知らないうちにあれよあれよといううちに子どもに普及してしまい、大人達は事後承諾のように携帯することを認めざるを得なくなった。文化の普及も消費者主導ではなく、メーカーや企業の意図のままのようである。最近では地上デジタルというテレビシステムへの買い替えが進んでいるようであり、エコポイントなる政府の後押しもあり、薄くて大型の液晶やプラズマテレビに変わりつつある。科学技術の発展でさまざまな便利な製品が登場するのはやむを得ないとしても企業の経済的利益のために消費者の鼻づらが引っ張り回されるのはいかがなものだろうか。

戦後の変化を大きく見ていくと「子どもをめぐる情景」の変化が一番大きいのではないか。日常生活における風景や人と人とのつながりが大きく変わってきている。それを一番如実に感じるのは子どもの歌ではないか。童謡や唱歌と言われる歌にはなおさらにそれを感じる。どんな歌でも良いのだが例えば「里の秋」。

1 静かな静かな里の秋
お背戸(せど)に木の実の落ちる夜は
ああ母さんとただ二人
栗の実煮てます いろりばた

2 明るい明るい星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の渡る夜は
ああ父さんのあの笑顔
栗の実食べては思い出す

3 さよならさよなら椰子(やし)の島
お舟にゆられて帰られる
ああ父さんよ 御無事でと
今夜も母さんと祈ります

この歌が「海外からの復員兵や引き揚げ者たちを慰め、励ますために作られた歌」だとは知らなかった。3番の歌詞を聴いて「なるほど」と思った。戦前からの歌だったとは知らなかったが、それでなくても「お背戸」や「夜鴨」などという詞は耳で聞いても分からないだろう。「いろりばた」なんてものは普通の都市生活ではお目にかからないし、「栗の実を煮る」という情景も想像がつかないはずだ。つまり「父親の帰還」を待つか否かの以前にこの歌の情景そのものが分からないわけだ。わずか半世紀と少しの間に愛唱されていた童謡の歌詞が理解できなくなるほどの文化の変容などあってよいものだろうか?

8月と言えば「お盆」でもある。30年前に父はこの世を去り、その年、京都で大文字の送り火を見た。その時は特別に悲しいという気持ちを持っていたわけではなかったが『大』の文字は滲んでいたし、翌日の空は雲が秋空のように高かったのを覚えている。いずれにしても、この世を去った人は二度と帰ってこないというのはまぎれもない事実のようだ。

2009.08.21.

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