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直言曲言 第257回 「汽 車」

By , 2009年3月16日 2:21 PM

旅先での偶然の出会いについて前回の直言曲言で述べたが、「旅」について書きたくなった。私たちの世代にとって「旅」と言えば「汽車の旅」である。私は自分では旅好きであり、「鉄道ファン」であると思ってぃる。「鉄道ファン」と言っても昨今の「鉄ちゃん」とか「鉄子」のようにマニアックなものではないが名づければ「旅情派」鉄道ファンである。日本ではどこにいても鉄道の音が聞こえる。日本は島国だと言われる。日本列島の中央部は山ばかりである。人々は沿岸の海沿いに住んでいる。地図を見れば列島の沿岸部沿いを縁取るように鉄道が走っている。日本にいればどこにいても、都市でも田舎でも必ず近くに鉄道が走っている。今まで暮らしたことのある街はどこでもそうであった。線路沿いに住んでいたわけではないが、少し離れていても1キロメートルも行けば線路があった。昼間は聞こえなくても、夜中になれば貨物列車の音が聞こえた。50両も60両もの貨物列車が規則正しい音を立てて通過した。

断っておくが、今回は引きこもりの話ではない。なぜわざわざ断るかというと…。引きこもりのことを勉強しようとこの「直言曲言」を通読して下さる人がいらっしゃるらしい。そんな人に迷惑だろうと思って、お断りしておく。

私は昭和19年10月生まれ。敗戦の年の夏には北海道にいたらしい。昭和22年には京都にいたので、赤ん坊のころに北海道と関西を列車で往復した。もちろん記憶にはないのだが、のちに母の思い出話を聞くと、日本海側の海辺を鈍行列車で通過したようだ。覚えてはいないのだが、私の原風景のような気がする。私の列車による旅行の最初の記憶は4・5歳のころ。九州の確か、博多駅から関門トンネルを通って本州に入る夜行列車だった。そのころ福岡県に住んでいて、ある時父と母が別れて住むことになった。弟は2歳、妹はまだ生まれてすぐの赤ん坊だった。物心の付くかどうかの私は「父と母のどちらとともについていくか」を問われてしばらく迷ったが、父についていくことにした。そのころ父と母はまだ30代、何故か父を一人にしておいてはいけないという気がした。その後、父と母はまた共に暮らすことになり、死ぬまで夫婦であり続けたが、この時の私の選択のおかげであったと思っている。その時の列車は博多駅で母と別れた後の関門トンネル通過であった。のちの楽しい思い出は別として、その時の悲しい鉄路の響きは私のさびしい子ども時代の基調音でもある。

小学校3年の春、私は父の仕事に同行して東京へ向かった。結局私はその時以来、小学校へ行かなくなるのだが、その時はまだ父も元気だったようで、私にとって父との忘れがたい旅の一つとなる。昭和28年の春だが、そのころまだブルートレインというのはなくて、急行『銀河』も何本か走っていた夜行急行の一つだった。東海道線の急行列車は珍しくなかったが東京・大阪間を夜行で行く場合、丁度、時間帯が良かったのか、なぜかこの『銀河』号には何度も乗った。このころ国鉄の列車には1等車2等車3等車という等級ががあって、今のグリーン車のようなものだ。そのころの父の羽振りは悪くなかったようで銀河号の特別2等車という車体に青いベルトの描かれた車両に乗った。この旅行はこれといった事件もなく、まだ裕福だったころの私の初めての旅行体験、初めての東京体験だった。この時往きの車内で宝塚歌劇団に合格した娘の入学手続きをしてきたというおじさんと乗り合わせた。これとてもたいした話ではなく、お嬢さん自慢のおじさんと息子の自慢をしたい父がご機嫌でウイスキーを飲み交わしていたというだけの話だ。

その後の私の鉄道体験は高校2年の時。そのころ私は釜ヶ埼に住んでいて、天王寺駅までは歩いて30分。毎夜のように夕食後天王寺駅の東側の陸橋を訪ねていた。その頃国鉄関西線の始発駅は湊町駅。今はJR難波駅となっていて、湊町という駅はない。午後8時湊町駅発の関西線名古屋経由の東京行『大和』号はそのころまだ蒸気機関車いわゆるSL列車だった。8時11分ころ、天王寺駅東側陸橋下を通過する『大和』は熱くて白い煙を吐いて、私の旅情を掻き立てた。その頃、私は高校の文芸部のメンバーで、府立高校の文芸部交流会の設立を目指していた。昭和38年、安保闘争の後で高校の自治会の政治組織化が盛んだった。私は、それほどの政治意識もなく、他行の文芸部と交流し、せいぜい島崎藤村の『夜明け前』の読書会を開いたり「差別問題」や「人権問題」の討論会を開こうとしていた。ところが当時の校長はこうした動きを問題視、交流活動を弾圧してきた。それまで我々を支援してくれた社会科の教諭も弾圧の前にくじけ、私は高校生活やその未来に急速に夢をなくし、あっさりと家出の選択をした。

昭和37年11月のある夜、午後8時国鉄天王寺駅関西線ホーム、私は2人の友人と急行『大和』号の到着を待っていた。2人は私の家出の決意を知って、見送りに来てくれていた。「寒い」というほどの季節ではなかったが友人の一人は着ていたコートを私の肩にかけてくれた。私の家出に彼らがどれほど共感してくれていたかは知らないが、時代の雰囲気が家出を引きとめる気持ちにはなれなかったのだろう。翌朝、東京駅で『大和』を降りた途端私のプチ家出は突如終了した。見送りにきた友人の一人が帰宅後私の家出を教師に伝えた。丸の内警察の一室で夕刻まで過ごした。迎えにきた父とその夜の急行『銀河』に乗った。父は黙っていた。夜行列車の窓の向こうに遠い街の明かりが飛んで行った。雨は降っていなかったが外気は冷たいようだった。窓ガラスを露が伝い、それが向かい合って座っている父の涙のようだった。父はそれから13年生きた。

あれから私は数限りなく夜汽車に乗った。『銀河』にも幾度となく乗った。日本だけでなく海外でも汽車に乗るのが好きだ。日本を出るのに汽車というわけにはいかないが、時間と選択肢があるのなら飛行機よりも喜んで汽車を選択する。中国の北京から上海までの約20時間も、夜行特急の旅で大陸の広さを実感した。ロシアのウラジオストックはシベリア鉄道の終着駅だ。ヨーロッパ風というべきか、ウラジオストックの駅舎はジプシーたちで混雑する異国の雰囲気だった。そこからハバロフスクまでも特急で一晩の距離だった。夜だったから景色の記憶はない。生ぬるいビールがソビエトでなくなったばかりの極東の貧しさを伝えていた。あれからもう20年の歳月が過ぎた。車いすを手放せなくなった私は、もう夜汽車の旅で異国の感傷にふけることもできなくなった。1キロメートルほどのところを走っているはずのJRは今は貨物列車の音も聞こえない。

2009.03.16.

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