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直言曲言 第255回 「退 屈」

By , 2009年3月2日 2:17 PM

昨年5月、本欄に『倦怠』というタイトルの一文を書いた。『退屈』と『倦怠』、どちらも「飽き飽きしている心情」という意味では似た言葉である。状況としては「変化に乏しく事件も景色も変化が少ない」といった有様である。しかし気分としては「倦怠」の方は「けだるさ」や「無気力」を感じさせるのに対し、「たいくつ」の方は文字通り退屈でむしろ本人の気力としては何かしたくて意欲満々なのに、することが何もないので「退屈」しているというところだ。私としては「文学的」には「倦怠」という感情が好きで、文学的というのは大げさだが、若いころそのような感情に遭遇して、何か「老成」したような気分を表現したいと思ったものである。

最近になって「退屈」といった感情にしばしば襲われ、この感情について考えてみたいと思っている。60歳の時に脳梗塞という病気に罹り半身不随の障害者になった。半年くらいリハビリテーションをして、何とか車いすや4点杖に頼ってではあるが町に出歩くことができるようになった。とはいえ、妻が運転する自動車に乗せてもらって、車いすを下してもらい、妻の所用が済むまで付近をうろつきながら待っているという有様である。もちろん立場上偉そうなことを言えるわけでないので、ひたすら妻が現れるのを待っているわけだが、場所によっては退屈この上ない。だから退屈を紛らわす方法をあれこれ思いつく。通り過ぎる自動車のナンバープレートの4桁の数字を使ってのゲームもその一つだ。4つの数字をそれぞれ一ケタの数字として分解し、それを四則記号を用いて合計「10」にするというものだ。例えば「1、2、3、4」であればすべて「+」記号で結べば「1+2+3+4」となり合計10である。「2、3、4、0」であれば「2×3+4+0」でやはり合計10となる。たいていの数列は工夫すれば10になる。自動車が数台続いて通過するときは一瞬のうちに、計算しなければならないからやや困難を感じるが、退屈しのぎには「もってこい」である。まあ、何の役にも立たない遊びだから、他人にお勧めするわけにはいかないが、「退屈症」の人には詳しくお教えしても良い。他にも退屈な時に試みる遊びを私は幾つか知っている。

引きこもりの子どもを持つ親にとって、子どもが社会参加していない。将来も就職できないのではないかというのは最大の不安であるらしい。親は子どもに言う。「私たち(親)は(あなたよりも)先に死ぬのだから、早く就職して安心させてほしい。」これは文字通りの「脅迫」である。子どもは好き好んで就職しないのではないからこんな脅しに乗るわけにはいかない。「脅しには脅しで対抗」するわけではないけれど、「(親が死んだら)私も死ぬ」と平然と言ってのける。子どもがなぜ就職できないのか理解できないので親の焦りは募る。学齢期を過ぎた若者を世間ではNEET等と呼ぶ。ニートは英国発の用語であちらでは「ひきこもり」とほぼ同じ意味で使うらしい。しかし、日本ではこの用語が紹介されたときの誤解から「仕事をしない若者」と理解されている。なぜ「仕事ができない」のか知らない人は仕方がないけれど、その経済的・社会的背景を知る人がこの用語を平気で用いるのは破廉恥であると私は思う。

引きこもりの社会的背景を私はさまざまに説明するが、その一つに「豊かになったが出口のない競争社会」というのがある。若者にとって「就職し辛い」社会であるが、もうひとつ「なぜ就職しなければいけないのか?」分かりにくい社会でもある。こう聞かれると親は答えに窮する。

「なぜ働かなければいけないのか?」本当は大人だってそんなこと考えたことはないのだ。しかし、子どもには「どうしても働いてほしい」と考えている。「生きていくためには、お金が必要だ。だから生きていくためには働かなければならない。」とっさに思いついたように話すが、実はこれしか「働く理由」が思いつかない。これでは「お金の為に働く」「お金の為に生きていく」と言っているのと同じだ。これが本音かもしれない。本当なのか?そんなはずはないだろう。では何のために働くのか?親の職業の後を継ぐ?親が医者だから医者になる。親が教師だから教師になる。世襲のような職業の押し付けは引きこもりのきっかけにもなるが、考えようによれば何の職業に就くか考えなくて良いので面倒くさくなくて良いかもしれない。小学校の低学年ころまでは、単純にあこがれた職業もあった。新幹線の運転手や消防士、看護婦さんやケーキ屋さん。それらの職業がいけない理由はないのだが親はもっと社会的地位の高い職業に就いてほしいと考えているらしい。

じっくりと考えれば、職業選択の基準は能力適性や給与水準、地域ニーズなど色々あるが、やりがいということも考える。ミッション=使命という職業観もある。社会正義の実現に貢献したいというのも若い人には当然の使命感である。困っている人を助けたい、他人の役に立ちたい。そんな仕事もあるだろう。しかし、最初からそんなに格好良い仕事ってあるだろうか?仕事をしている中で、いろんな場面にぶつかる。ここぞという正念場で社会正義を大事にする。困っている人を助ける。それが大事だ。最初から正義の為の仕事を選ぶなんてウソ臭い。そんなのウソだろうと思う。自分の選んだ職業と出会った場面の中で正義を実行できればよい。

私は六十余年生きてきて、「人間って『退屈』しないために仕事をするのだなあ」と思った。もし大人になっても何も仕事をしなかったなら、さぞ退屈な人生だっただろうなと思う。仕事をするのはたぶん、40年か50年。あっという間に過ぎ去った歳月のようにも思う。それでもいろんな出来事があった。反省することも多い。でもそれでよかったのだと思う。もしこの歳月何もしなかったとすれば恐ろしく退屈な人生ではなかっただろうか?退屈すぎて、ここまで生き延びてこられたかどうかも分からない。もし休養が必要なほど疲れていないのに、一日でも何もしなくても良い日があったなら、どうやって時間をつぶしたらよいのだろう。少年のころから、多くの職業を体験してきた。もちろんお金を稼ぐためにも多くの職業を体験してきた。でも、結局私は退屈をしないために50年も働き続けた気がする。退屈しないためには興味のもてる仕事を選び、一生懸命に努力もしてきた。働き続けるためには他人よりも「よく出来る」と言われることや、それにより自信を持ち続けることも必要だったかもしれない。仕事をすることにはたいした理由など必要ないのだ。あなただって退屈するのは嫌だろう?

2009.03.02.

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