直言曲言 第254回 「飲 酒」
「酒は泪(なみだ)かためいきか 心の憂さの 捨て所…」昭和の初め、古賀正男作曲で一世を風靡した歌謡曲の名曲である。戦前・戦後を通じて人々に愛された曲であるので、今もカラオケなどに残され、中高年の方ならご存知の方も多い。そういえば「一人酒場で飲む酒は 別れ泪の味がする…」こちらの方は昭和41年、美空ひばりが歌って大ヒットした「悲しい酒」である。同じ古賀正男作曲であるせいか、曲想も似ていてメロディも似ている。酒に関する歌は歌謡曲に限らず数多くある。「酒なくて 何の日本の 桜かな」こちらは川柳。「若き二十のころなれや 三年がほどはかよいしも 酒・歌・たばこまた女 外に学びしこともなし」これは作家佐藤春夫が慶応義塾在学中の青春を追憶した詩。学生時代を自嘲的に追憶したとは言え「酒」が「学び」の対象だったとは、酒もまた容易に身につけることのできないたしなみの一つだったのだろう。そういえば私も酒を学ぶために一つの壁を乗り越えた。
大学に入ったころ、サークルの飲み会などで、私はかなりの酒のみであることを自覚していた。どのくらい飲めるのかはまだ限界を知らなかった。入学後2ヶ月経った頃、私は京都市内に下宿することを決めた。そのころ私は週に6回も家庭教師のアルバイトをしており、実家の大阪から通っていたのではほとんど自分の時間を持てなかった。京都市北区紫野大徳寺門前町、私の初めての下宿の所在地である。私は人生で初めて親元を離れて自立生活を始めたのだが、その初日、近所でトリスウイスキーの大瓶(2リットルくらい)と赤玉ハニーワインというのを買って来て、腰を据えて一人で飲み始めた。ウイスキーと甘いワインをカクテルにしてどのくらい飲んだのか、翌日猛烈な頭痛で目が覚めた。二日酔いである。以来40年以上酒を飲み続けているが、二日酔いになったのはこの時が最初で最後である。自分の酒の適量を知ろうとしたことであるが、私はこの時以来酒の冒険について慎んでいることがある。それは、酒は一人で飲むべからず。安すぎるウイスキーは避けよ。甘い酒とのカクテルは良くない。以上の3点である。量についての限界は眠ってしまったのでいまだに分からない。
最近若い人との食事会(鍋の会)で酒についての話をすることになり、若い人の話を聞いていたのだが何と7割強の人が酒を飲まないという。淡々と「酒は飲みません」という人もいれば「一滴も飲めません」という人もいる。誇張でなければ「一滴も飲まない」というのは「飲めない」というよりも「飲まない」のだろう。「おばあちゃんの作ったかす汁を食べて悪酔いしたことがある。」という笑い話のような体験を披露した人もある。酒を飲む人と飲まない人には体質的な格差があるという。酒に弱い人は肝臓のアルコール分解機能が弱いといわれている。肝臓でアルコールが分解されないので、いつまでもアルコールが残留し、酒に酔った状態や二日酔い症状が続くのだという。酒に強いことと弱い人に優位性の格差などあるわけではない。だから酒の好きな私も飲めない人に無理に勧める気持ちはない。
飲酒率についてインターネットを検索して調べてみたが、正確な飲酒データはないらしい。飲酒について調べていないのではない。酒を飲むということについて人により認識が違うらしい。調査によっては男性の90%は酒を飲むということになっていたり、50代男性が最も多いなどというやや「低いかな」と思えるデータもある。おそらく「一滴でも飲む」という人を含めれば90%を超えるだろうし、「毎日常習的に飲む」人だと20%程度なのかもしれない。最近ではお酒を飲むという人は減っている傾向があるという。「週に1回以上飲む」人が75%だというのが信頼できそうなデータではないか。
20人以上の若者が集まる場なので「お酒を飲まない」という人がかなりいても不思議ではない。しかし7割もの若者が「酒を飲まない」とか「一滴も飲まない」という若者がいるというのは一般に比べてもかなり異常なデータだと思える。鍋の会に参加する引きこもりの若者は飲酒について一般の人とは違った感覚を持っているのだろうか。
お酒を飲めば、多少の個人差はあれ、酔っぱらう。酔っぱらうということは、普段の自分に比べて、本音が出てくる。別の意味では、他人に対する警戒心が無くなり、自分の垣根が低くなってしまう。人によっては、そんな自分を他人に見せるのは恥ずかしくてお酒を飲むのを控えるという人もいるだろう。誰にでも自分の理性を守ろうとして、人前ではお酒を飲むのをやめようとか「ほどほどにしておこう」という気持ちはあるだろう。一方でお酒を飲むことによって恥ずかしい自分もさらけ出そうという気持ちも働くのではないか。日常的に飲んで酔っ払うかどうかは別にして、何かのお祝いの場であるとか、忘年会であるとかは、お酒のそんな効用を積極的に利用しようという場である。そんな場でも「一滴も飲めない」と称して辞退するのは「飲めない体質」ということを理由にして相手との本音の交流を拒絶しているのではないか。
引きこもりは対人恐怖とか人間不信とかの神経症的な体質だと思われる。対人恐怖は病的な体質としてやむを得ないものと思われがちだが、人間不信とは本人の他人を信じないわがままな体質でしかないと思う。引きこもりの親との面談をしていると、本人は飲酒しないが父親は「よく酒を飲む」という人もいる。そういう人に限って酒乱癖があり、母親がそれを嫌って「酒を飲む」ことを不必要なまでに悪しざまに言う。あるいは両親ともに人付き合いの悪い、お酒を飲まない人たちは、お酒を飲む人たちを嫌い、当然のように子どもにもその気質が伝染する。「一滴も飲めない」のではなく飲もうとしないのである。
鍋の会は見知らぬ若者たちがともに食事をしながら、友達を増やす会である。当然ながらそのように習慣づけされ、お酒を飲めない人もいる。20歳未満のお酒を飲めない人もいる。飲める人たちも、私もそんな人たちに無理にお酒を勧めることはしない。しかし「一滴も飲めない」と言って「一滴も口にしたことがない」人たちは、お酒を飲んだことがあるのだろうか。心の垣根を取り払うお酒の効用について考えたことがあるのだろうか。10年も考え続けてきたことであるが、心の垣根を外すための留金に手をかけることもなく、鍋の会に参加し続ける人たちの気持ちが理解できない。飲酒だけではないが、長年鍋の会に参加していても引きこもりを解消できない人がいる。お酒を飲まない人は鍋の会に参加するのはお断りしようかと思う。これは極論だろうか?
2009.02.18.