直言曲言 第228回 「倦 怠」
5月も半ばを過ぎて気候が安定してくると暖かくてのんびりした気分になってくる。もう春先のあの肌寒い風も吹かないと思うと、午後には急に眠気が襲ってくる。こんな時あの「倦怠」という言葉を思い出す。私にはこの「倦怠」という言葉がなぜか気になる。人生のテーマというか、文学的な課題というのか、気になる言葉である。一介の平凡な老人にすぎない私が文学的なテーマなどというのは大仰過ぎるが、「倦怠」という言葉を思い出すと何か書かないではいられない。
「倦怠」そのものの意味はけだるさとか退屈感とかだろうが、ただの退屈ではなく、嵐が通り過ぎた後のけだるさというか、緊張の後の脱力感とか茫然自失のさまが思い浮かぶ。フランス語で「アンニュイ」というが、語感からも倦怠感が感じ取れる。私はこの倦怠という言葉が昔から好きで、高校3年の時に「倦怠」というタイトルの小説を書いた。その当時比較的多く見たフランス映画や中国民話の「邯鄲の夢」に触発されたイメージである。主人公の私が図書館の一室でぼんやりしていると、そこから見える坂道を、片足を引きずった若い女が通りかかる。主人公にとって見覚えのある女である。そこから主人公の回想が始まる。子どもの頃その女の子と知り合いだった。まだ小学校高学年だったが、その子は一つ年上で早熟な女だった。恋愛まがいのやり取りがあって、やがてその女の子は交通事故に遭い、片足が不自由になる。何年かの年月が経ち、二人は音信不通である。たった数年間の時間にすぎないが、貧乏のどん底にいて学校にも通えなかった主人公である私は、今は平凡な高校生で大学進学を目指している。女は10歳も年上の男と結婚したことを聞いた。そこで主人公はふと吾にかえるが、若い女はまだ坂道の途中で、よく見ると女は孕んでいて夏の陽射しの中を相変わらず片足を引きずっていた。私は倦怠を感じた。
それだけの話であるが、原稿用紙にして70枚。これを私は明日が中間テストという夜に一晩で書き上げた。そのころの私は勉強に身が入らず、テスト前になると決まって詩や小説を書いていた。高校の文芸誌に発表したのだが、何の評判にもならなかったし、誰からも論評を受けなかった。私の記憶では当時のフランス映画では、ファーストシーンとラストシーンが同じという作品が多かったと思う。いろんなことがあったが、何も変わっていないという意味だろう。「西部戦線異状なし」という映画も、兵士が戦場の鉄条網に止まろうとしている蝶々をつかもうとして手を伸ばした時、敵の銃弾に撃たれて死ぬ。その日の戦線本部に打たれた無電は「西部戦線異状なし」だった。一人の兵士の死も戦争全体にとっては何事もなかったのと同然だ。「邯鄲の夢」も進士の試験を目指している旅人の盧生が茶店で老人から枕を借りてまどろんだ。盧生は出世をして栄華をつくして一生を終える長い夢を見たが目覚めてみると、それはちょうど粟飯が炊けるまでの短い時間だった。「盧生一睡の夢」とも言う。私はこの話に出世の虚しさや人生の虚しさというよりも、むしろ倦怠感を感じてしまう。日本人は平家物語や方丈記の表現にあるように、無常観を嘆く文学が多く、人の世の短さやはかなさを詠嘆するが、私にはむしろ退屈でけだるさを感じることが多い。倦怠感というのは無常観の裏返しで、はかないと退屈は同じではないか。何事かに夢中になることも虚しいことと感じてしまう。
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
倦怠の語句を思い出すと、なぜか芭蕉のこの句を思い出す。奥の細道の一節である。東北の古戦場、あるいは古い城跡かも知れぬ。倦怠のことを嵐が通り過ぎた後のけだるさと書いたが、古い戦も通り過ぎた嵐である。かつて、血を流し合うような激しい戦があったが、今は静かな日だまりとなって、夏の草いきれだけが残っている。この句を思い出すと、なぜか血の匂いが鼻の周りを漂う。兵(つわもの)どもというのだから、戦の血の匂いを思い出して当然かもしれないが何百年も前の古戦場に夏草の血の匂いがするはずはない。私は古戦場に出くわしたことはない。私はこの句を思い出すと、夏の日差しを浴びた電車の軌道式の光景を思い出す。鉄路のわきには夏草が茂り、枕木の間にも、赤錆びた石ころの間に雑草が茂っている。時折、二両連結の電車がやってきて、レールの鉄錆がまき散らされると、血の匂いは一層強くなるような気がした。鉄錆のにおいと血の匂いは同じ。地は鉄分を含んだヘモグロビンを成分に持つのだから、あながち錯覚ではないのかもしれない。ただ「夏草や」の句と鉄路の光景がどこで結びついているのかは、未だにわからない。中学に行くころにはもう私はそれほど貧しくなく、退屈だと思える日々を過ごしていた。そのころ見た夏の鉄路が、私にとって、かつて嵐のような記憶だったのかもしれない。
菜の花の 黄の群落を 過ぎてより
また果てしなき 倦怠来る
これは高校時代の私の国語教師が学生時代に詠んだという短歌である。名歌であるかどうかはともかく、私の記憶を離さない。その教師は風采の上がらない、中年の頭髪の薄い男性教師であった。高校卒業後45年も経ったが、その後一度も会うこともなく、とっくに死んでしまったそうだ。青春時代の旅の途中であろう。真っ黄色な菜の花畑を通り過ぎ、明るすぎる緊張感が過ぎて行ったあとに、その教師は弛緩と倦怠感を感じたという、当時の高校生からみればその風采の上がらない風貌と共に何のことやらわからないような短歌であるが、私には風采の上がらないその教師にも熱情のような嵐の青春があったということが強く記憶に残った。色彩や絵画的な表現で心情や気分を表すことができるのだということを教えてくれた歌であった。
なぜ今頃になって高校時代に書いた小説や高校の教師の短歌を思い出だしたのだろうか。 センチメンタルな気持ちになったのか。これも一種の五月病なのだろうか。そうではない。実は2,3日前まで孫娘が来ていて、連休を挟んだ2週間ほどを過ごして行った。彼女がいる間は、朝から夜まで楽しい嵐が吹き荒れているようで大変だった。彼女に去られてみて、一挙に寂しさが押し寄せてきた。緊張の後の弛緩というか、倦怠感としか言いようのないけだるさに襲われた。私にはやはりけだるいような倦怠よりも、激しい嵐や緊張がお似合いなのだろう。
2008.05.20.