直言曲言 第227回 「遺 産」
遺産と言っても私自身の死期が近くなってきたので遺言でも残そうというのではない。残念ながら私には残すべき遺産などない。それに自覚症状としてはまだまだこの世におさらばする気などなく、もう少しお邪魔させていただくつもりである。『子孫に美田(びでん)を遺さず』とは私の父が生前まだ元気なころによく言っていた言葉である。有名な語句であるのかどうか父以外の誰からも聞いたことがないのでわからない。口調は論語のようであるが出典も分からない。いずれにしても、本来の人生訓というよりも、貧乏人のやせがまんのように私には聞こえた。
子孫に美田を遺せば子孫は豊かで安楽な暮らしをするであろう。美田を遺さなければ子は苦労して田を切り拓かなければならない。若い時の苦労は買ってでもせよと言う通り、苦労をした方が子はより良い人生を歩めるだろう。貧乏人は遺すべき遺産もないことを冗談のような強がりとして口にしたようだ。父が死んだとき遺産もない代わりに負の遺産というべき借金もほとんどなかった。借金をするほどの力もなかったということだろう。美田というからには田畑のことで農民の話のようだが論語の世界なら職業分化もまだ固定していなかったので遺産一般のことと理解してよい。近世以降、階層分化が進み、貧富の差も固定化していったので、金持ちの子は生まれながらにして金持ちという身分が保障されるようになった。商人などの金銭的な資産の他に、武士階級の身分も承継され、明治以降は華族・貴族などの身分も承継された。日本で一番特権的な身分はといえば、天皇家であり、戦後の民法下でも特別な世襲が認められている。「万世一系」などというが、少し歴史を学んだ人なら今の天皇家が神武以来の直系を伝えているなどと信じる人はいない。
現代の民法では身分などというものはなく、かなり高率の相続税が課されるので、相当な大金持ちでも3代も続けば貧乏暮らしを余儀なくされるが、天皇家だけは例外である。それに金銭に換算される資産は相続税が課されるが、職業は世襲が許されている。歌舞伎の名門など世襲の代表だが、親が生存中に子につけさせた学歴なども当然非課税で承継される。会社の社長などという身分も制度的には世襲などないが、親の株式は相続される。上場企業だと時価に換算されて相続税が課されるが、非公開の株式だと額面であり、会社の資産が実質的に遺産として承継されることになる。
子どものころの私の家は特に貧しかったが、当時は太平洋戦争の後遺症の時期でもあり、どの家もそれなりに貧しかった。今は豊かになり、特に引きこもりの子の家はどこもそれなりの中流ぶりである。そのころは都会では賃貸住宅や「間借り(まがり)」と言って、一部屋だけを貸してくれる家もあり、そこに住んでいる人も多かった。いまでは引きこもりの若者の家は、ほとんど戸建住宅であり、賃貸住宅の人も少ない。それほど豊かなのに、就職を急がせるのも引きこもりが増える原因だと思っている。豊かなのに、就職先が少ないというのが引きこもりが増える原因である。アメリカでもそんな引きこもりが増えている。なんでもアメリカの真似をしてきた日本だが、引きこもりではアメリカが日本の真似をし始めたようである。
引きこもりが増えるのは社会環境ストレスのせいだと考えているが、その原因の一つに「負の社会的遺産」があると思う。つまり若者たちに直接の責任はないのに、「負の社会的遺産」が重くのしかかっていて、未来に希望の持ちにくい社会になっているのだ。遺産というからには前の世代が遺したものだ。父親たちや私たちの世代の団塊の世代、それより上の70台、80台の世代が中心だったころの付けが回ってきたのだ。代表的なのは年金問題。年金は税金とは違い、将来政府が負担すべき年金を今集めて貯蓄しておく制度である。ところが今年金支給を受けている60台、70台、80台の世代が年金を負担している時、集めたお金をグリーンピアという保養施設を作ったり、社会保険庁がさまざまな無駄遣いをしたりして、これからの年金の支払いに不安を残してしまった。
70台、80台というのは戦後の復興期に必死に働いてきた世代だが、団塊の世代は豊かになった時代に青春を送り、高校・大学時代には全共闘運動などを体験しているが、その後運動の鎮静化に伴い、経済成長の爛熟期に利己的な蓄財に走り、多くの社会的な負債を遺した。私は私自身を含む団塊の世代の社会的責任は大きいと思う。年金問題だけでなく、800兆円にも及ぶ国債残高は、中央政府及び地方自治体の借金として次の世代への重圧となってのしかかっている。今の団塊の世代は定年期を迎え、持ち家を持ち、退職金をもらい、自分たちの年金は確保しながら、将来世代に対し、大量の借金や不安を遺しているということに責任を感じている人はいないのであろうか?引きこもりの親たちに面談をしてきた経験からいえば、引きこもりのわが子の精神異常を疑う親たちは多かったが、自分たちの世代が造ってきた社会の責任を感じている人は少なかった。私たちが若い頃、植木等の無責任男というのが流行ったが、あれは私たちよりもうひとつ上の世代の自戒的なギャグであったのか、それともあのクレージーキャッツの影響で団塊世代が無責任になってしまったのか?
負の遺産といえばもうひとつ。地球環境問題である。高度経済成長が始まった1965年からの約10年間、工業生産の活発化により公害が大量発生した。自動車交通や工場煤煙による大気汚染、有毒排水など工場排水による水俣病などの公害病蔓延がそれであった。その後公害発生に危機感を抱いた日本は様々な規制強化により公害を追放したかにみえたが、局地的な濃厚汚染を追放しただけで、全地球的な規模で汚染は拡散されたのだ。それが現在の地球温暖化であり、地球汚染なのだ。20世紀から21世紀にかけての経済成長や化石燃料の大量使用が地球環境を汚染したことは明らかなのに、今すぐに環境汚染にブレーキをかけるどころか、環境汚染に頬かむりをしようとする国もある。無責任というのは日本だけでなく、世界的なこの世代の特徴であるらしい。世界一の温暖化ガス排出国でありながら、京都議定書の排出ガス削減の責任を拒否し続けるアメリカは利己的で無責任な国の代表国である。イラク戦争で大量破壊兵器の存在を吹聴して戦争を始めたが、ありもしない大量破壊兵器とどちらが人類の未来の敵となるのか?少数民族の抑圧だけでなく、世界人類を敵に回すようなことを続けていれば、9.11以上の鉄鎚が頭上に振り下ろされることになるだろう。
2008.05.13.