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直言曲言 第247回 「仮 定」

By , 2008年12月1日 4:14 PM

プロ野球解説者などが「野球に『タラ』『レバ』はない」という。「もしあの時~であったら」とか「もし~が~でなければ」といった仮定の話をしてはいけないという意味である。野球競技などのスポーツにはさまざまな偶然的要素がからむ。その偶然を仮定によりくつがえしてしまうと勝ち負けや技術の巧拙を論じられなくなるという意味であろう。野球やスポーツの話に限らない。あらゆることに仮定の話を持ち込むことは、物事の本来の成り行きをあいまいにしてしまうことになりかねない。最近TVや人々の会話でこういう仮定の話、特に仮定の上で刹那的な意思を問うような話が多すぎるような気がする。

先日もTVでピートたけしが司会する長時間バラエティを見ていたら冒頭に「トロッコ問題」というのが出てきた。「トロッコが暴走してくる。その先には5人の人がいる。あなたはその手前の転轍(てんてつ)機があるところにいて、その転轍機を切り替えればトロッコの進路を切り換えられる。しかし切り替えた進路にも一人の人がいて、どちらにしても人が死ぬ。さてあなたはどうするのでしょう?」という設問であった。番組では侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が行われ、視聴者にもファクスで意見を述べるように呼びかけられた。人気番組なのでかなりの反響を呼んだようだ。「教育」に関する番組のようで、この「トロッコ問題」を考えさせるのは子どもに対する教育として重要な問題であると考えられているようだ。私にはそうは思えなかった。

これだけに限らず、究極の選択というか、極限的な状況の中で「どう考えるのか?」と刹那的な選択を問うような設問やドラマが増えてきているような気がする。「地球最後の日」のような設定で最後の24時間にあなたはなにをする?とか、「もしあなたの命があと2日しかないと宣告されたら、あなたはどうする?」といったテーマである。本やTV番組でも「世界がもし100人の村だったら」というのがあったが、非現実的な仮定でものを考えさせるという意味では同じようなものだ。「100人の村」というのは元々まじめな話で地球がもし「100人の村だったら」という仮定で統計的に縮小すればどのような格差があるのかを分かりやすく説明する為のたとえ話だった。しかしこの原作本が大ヒットしたため、さまざまな亜流本やさまざまなメディアに加工され、結局荒唐無稽な仮定話のオンパレードになってしまった。格差のドキュメンタリーとしてさまざまな力作も生まれはしたが、元々が統計的な処理に基づく仮定であったため、かえってドキュメンタリーとしてのリアリティを相殺してしまったのではないか。

究極の選択や極限的な状況の中で選択を迫るような設問は普通は「あなたの命はあと24時間しかない。残された24時間であなたは何をする?」というものだ。24時間しかないと言われれば、これまでの人生でやり残したこと、やれなかったことをやりたいと思うのが普通だろう。質問者の意図はどんなものであろうと、私もこんな質問を受けたことがある。すべての人が同じとは思わないが、まだ若かった私は、すぐに性的なことを思いついた。それもまともなら考えもしない方法で不道徳なことを思いついてしまった。根底では、たとえ警察に逮捕されても24時間では死刑になったりしないだろうという侮りがあった。もちろん、24時間しかない、というのは仮定であって現実ではないということが分かっていたから、そんなことは実行しなかった。映画やドラマでもそんな状況をよく見る。ドラマの主人公は私のような不道徳な妄想を抱くのではなく、ひどく倫理的で、損得を無視したような人助けを行うような選択をしていた。確かに私自身も、不道徳な妄想に走る一方で、今こそこれまでにやれなかった善行を行おうと思ったこともある。人は極限的な状況に追い込まれると快楽主義かその反対にきわめて倫理主義的傾向に走るのかもしれない。しかし何度かそんな設問に遭遇しているうちに、人はなぜそんな質問をするのだろうか?と思ってしまう。極限状況を仮定することによって人間の本質を確かめようとしているのだろうか?果たして、その時の答えが人の本質なのだろうか?

私はそんな質問をするよりは「あなたの余命はあと10年。さてあなたは何をする?」と聞いた方が良いような気がする。あるいはそれが「1年」でも良い。10年なら現実の私に残されたのもその程度の期間だろうし、末期がんの患者が宣告されるのもその程度の命かもしれない。冷静になればその程度の余命でも、アンチクライマックスな日常を生きている私にはさほどの切迫感はない。あらためて問われれば、その期間に何をするべきかと考えるが、さほど快楽主義にも倫理主義的にも生きる気がなく、相変らぬ日常を生きている。真剣に考えようとはするのだが私は考える葦ではなさそうだ。しかしどうにもならない24時間を考えるより、じっくりと余生を考える方が意義がありそうだ。

ところで冒頭の「トロッコ問題」だが、視聴者からファクスでの回答が多数来たそうだ。中には「転轍機を右でも左にでもなく真ん中にすればトロッコは脱線し線路上の人は助かる。」という知恵者もいたそうだ。しかし設問者はおそらく「トロッコには多数の乗客がいて、脱線させることはできない。転轍機を切り換えるか、そのまま何もしないでいるかの2つ以外の選択肢はない」とでも応じて、あくまでも二者択一を迫っただろう。二者択一しかないと言われたら、5人より1人の方が死者の数が少なくて良いと答える人が多いかもしれない。しかし、1人だからといって人の生命を軽んじることはできない。1人よりも人の方を尊重するというのも民主主義や多数決の落し穴である。この設問には正解などない。人を悩まして楽しむだけのようなくだらない設問である。

人生において究極の選択を迫られることがないとは言えない。またそれがなければ文学や芝居の面白さも削がれるかもしれない。シェークスピアのハムレットも「生きるか死ぬか?それが問題だ」というセリフがなければ興味が半減してしまうのかもしれない。しかし究極の選択を常に二者択一に限定してしまうのは、私には却って面白くなくなる。共通一次試験で話題になった選択式設問のつまらなさもそこにある。問題には多様な回答があるはずである。オリジナルの回答ができない学生が増えているからあらかじめ用意された選択肢の中から回答を選ばせるのだろうか。二者択一とは選択肢設問の究極の形なのだろうか。受験生を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。共通一次試験だけでなく、このトロッコ問題のようにテレビでも視聴者を馬鹿にしているようだ。このような問題を本気にして悩んだりしてはいけない。

2008.12. 1.

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