NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第238回 「賭 け」

By , 2008年9月1日 12:31 PM

競馬・競輪・ボートレース・オートレース、パチンコ・麻雀・おイチョかぶ・チンチロリン…。賭けごとと言われるもののうち比較的ポピュラーなものである。賭けごとやギャンブルに全く無縁という方もいるだろうが、ギャンブルで身を滅ぼすという人もいる。賭けごとは勝負事でもあるから、勝ちもあれば負けもある。ある時、人に誘われて競馬のクラシックレースなどの馬券に参加する。ビギナーズラックで何倍かの馬券が的中する。千円の投資が一万円になったりすれば大儲けである。それだけで済めば良い思い出であるが、ある時おこづかいが少なくなって悪い思いが頭をかすめる。あの時、10倍にもなったのだからとなけなしのこづかいをはたいて大穴を狙う。大穴などめったに当たるわけがない。めったに当たらないから大穴というのである。そんな時はもう当たり前の理屈も分からない。失敗もそれだけで済めばおおごとには至らない。一人身の気楽な身分ならそれでも良いが、結婚して子どももいる立場。手をつけて負けてしまったのはもらったばかりの給料。穴埋めのために借りたのは高利のサラ金。その返済のために「今度こそ」とまたギャンブルに。

中央競馬なら土・日にしかやってないが、競輪やボートレースは水曜を除くウイークデイにも毎日開催されている。関西なら、大阪市内に限らなくても岸和田や甲子園、尼ヶ崎・びわ湖、ちょっと足を延ばせば奈良か和歌山でやっている。平日の競輪場やボートレース場、おばちゃんたちもいるが、圧倒的に多いのはひげ面のおじさん。「この人たちは、仕事はしていないのだろうか?」素朴な疑問が頭をよぎる。失業者もいるが70代のご老人で毎日来ている人もいる。聞いてみると、年金が入るとやって来て、100円で大穴を買いレースを楽しむそうだ。年に1度くらい何十万円という大穴を当てたり、何百万という大穴がかすめたりして興奮するそうだ。こんな年金高齢者ギャンブル派は幸福な部類で、中年や壮年ギャンブラーに悲惨な事例が多い。

ギャンブル狂には負けっぱなしの人は少ない。何度か幸運に恵まれ大金を手にしている。「夢よもう一度」と大穴を狙うが大穴がそれほど連続するはずがない。その一度の失敗でヤメテおけばよいのだがもう一度、もう一度と挑戦が続く。やがて持ち金はなくなり借金に手を出す。家に帰り事情を話せば妻の怒号が飛ぶ。ギャンブルにうつつを抜かすくらいだから、職場は首になり、行く所がない。平日の昼間からやっているのは公営ギャンブルくらい。こんな失業者にでも健康保険証さえあれば50万円もの大金を貸してくれる。こうなればもう夫婦喧嘩だけではおさまらない。借金とりが日参するのだから、夜逃げをしようか一家心中をしようかとの相談になる。連日のギャンブル狂いの毎日であったから、生き延びるための知恵が回らない。

こうなるとギャンブルは社会悪なのだが、ギャンブルでは勝ち負けの比率が低いほど社会的に公認されているらしい。宝くじは銀行が発売元になっていて3億円当たるなどとテレビでも射幸心をあおっているが、当選確率は極めて低い。最低賞金の等級なら確実に当たるが、これは換金のため次回くじも買わせるためのシステムであることは明らか。この最低賞金を含めて賞金総額は発売総額に比べて極めて低い。あまりにも当選確率が低いため宝くじでギャンブル狂になったり生活苦に追い込まれる人も少ないだろう。これに比べるとやくざの賭場などで行われる丁半ばくちは当選確率は2分の1。丁(偶数)か半(奇数)かを争うのだから公正な確率である。丁か半を当てた方が相手の掛け金を取り分配する。ただしそのつど掛け金総額の五分は胴元が召し上げる。五分と言えば5%だからわずかだが、同じ金額の勝負を20回繰り返せば掛け金の100%は胴元側に移ってしまう。もちろんやくざが行う丁半賭博は違法である。これに比べて競馬や競輪・ボートレースなどの公営ギャンブルは認められていて白昼堂々と行われている。これらの公営ギャンブルは胴元の主催者が25%ものテラ銭を巻き上げる。つまり総掛け金の25%を天引きし当選者に分配する。これでは4回同程度のゲームを繰り返せば、主催者側に全部巻き上げられることになる。公営賭博の主催者とはやくざ以上の悪質ぶりなのである。

勝っても負けても結局損をする賭博、ときには生活破たんや生活苦に結びつくギャンブルは一般に悪徳とみなされ、善良な人々は近づかないようにしている。しかし勝ち負けを左右するギャンブルは必ずしも悪徳とは限らない。スポーツにおいてもギャンブルが正当な戦術の一つとして位置付けられているものもある。アメリカンフットボールはサッカーやラグビーのように得点を競う集団球技の一つである。野球のように攻撃と防御が交代し、攻撃側は4回の攻撃チャンスがある。この4回の攻撃時に10ヤード前進するとファーストダウンという次の4回の攻撃権を獲得する。3回目の攻撃時までに10ヤード前進できないと、通常はランやパスなどの攻撃を放棄してパントと称するキック攻撃に切り替え、ボールを出来るだけ敵陣深く蹴り込む。パントをすれば攻撃権の放棄であるが、通常の攻撃でヤードを確保できなければそこから敵の攻撃が始まるが、パントの場合、敵の攻撃が敵陣深くからになるため、防御もしやすくなる。ところがこの4回目の攻撃をパントせずに、通常の攻撃を続行する。もちろん成功すればファーストダウンを獲得し、次の攻撃も続行できる可能性もあるが、失敗すれば敵の攻撃が有利になってしまう可能性もある。この攻撃手法を「ギャンブル」という。いつも「ギャンブル」をしていては敵から見透かされる可能性も高いが、いつも4回目はパント攻撃では面白みも少ない。

引きこもりの若者たちの親は善良な人々がほとんどだから、若者たちもほとんどギャンブルをしないか、軽蔑している人が多い。ところが日常生活の中でも「勝ちか、負けか」の賭けを必要とすることは多いのである。例えば「恋の出会い」。恋人は「見えない赤い糸で結ばれている」などと言うがそんなことはない。どんなに愛し合う恋人たちでも、最初はどちらかが意志表示しなければそのまますれ違ってしまう。愛に応えてもらえるかどうかは、こちら側の意思の伝達が最初。もちろん意思表示しても、相手間の好みと違ったり、相手にすでに恋人がいれば成就しないこともある。少なくとも相手にこちらの好意を伝え、相手もこちらに好意を持つ可能性をグーンと高めるのは意思表示からである。これも勝ちか負けかを分ける賭けと言えないことはない。恋愛だけではない。友情やすべての人づきあいもこんな「賭け」から始まる。

2008.09.01.

コメントをどうぞ
(※個人情報はこちらに書き込まないで下さい。ご連絡が必要な場合は「お問い合わせ」ページをご覧下さい)

Panorama Theme by Themocracy | Login