直言曲言 第239回 「流 通」
私の一家は新聞の折り込みチラシのファンである。末娘は小さな時から、マンションや住宅のチラシに興味を持っていた。今の私の家に不満があったのか、将来結婚してどんな家に住むかの夢を見ていたのか、切ない感じの夢であった。女房と私は食品スーパーなどのチラシを良く眺めていた。女房は主婦として当然の如く「どこが安いのか」を確かめるために見ていたのだろう。私は以前マーケティング関係の仕事をしていたので、漠然とチラシを眺めることによって物価や世相を知るということが習慣になっていたようだ。次女が結婚した相手がお菓子の流通関係の営業マンで、現在は千葉県に住んでいるが、たまに孫を連れて次女が帰郷すると婿は我が家の新聞の折り込みチラシを見たがる。彼が来る時は女房が数日分の広告チラシを取っておき、彼が食卓に座るたびに彼の前に並べる。関東や全国の出張先で、スーパーマーケットなどにお菓子を納品するらしく、関西は彼の担当先ではないが、どんな商品が流行しているのかとか、どのくらいの価格で売っているのかなどに興味があるらしい。確かに折り込みチラシを見ていると、その地域の流通事情が呑み込めてくる。食品スーパーの折り込みチラシには、余り盛衰というものはないらしいがマンションなどの不動産チラシは景気動向を如実に反映するようだ。高槻市富田地区では今も発売中のマンションがあるが、このところ不動産関係のチラシをまったく見なくなった。
私の家とニュースタートの共同生活寮の周辺にはダイエーが2つと中小スーパーが5つほどある。週末の折り込みチラシなどにはこれらスーパーのチラシがすべて入る。いわゆる目玉商品はそれぞれだが、類似商品は載っており鮭の切り身は数円の違いがある。品質の違いを無視して特定商品に着目すればAスーパーよりもBスーパーの方が安いといえるかもしれない。私は以前淀川の向こうの京都府に住んでいた。そこには団地内の小スーパーしかなく、駅前の大型ショッピングセンターに行くにはバスに乗らなければならなかった。今の住まいに引っ越して、物価が安くて、魚などはずいぶん新鮮で豊富だなあと思った。引っ越し当初はスーパー以外に公設市場や小売商店街もあって、明らかな過当競争の状態であった。いまでは公設市場はつぶれて、スーパーの数は多いが、店の特徴はそれほどなく、市民にとっての流通事情にそれほど影響があるとは思えない。
私がロシア・中国・北朝鮮の3国国境付近を旅したのはベルリンの壁が崩壊した後だからそれほど遠い昔ではない。と言っても20年近く前の私がまだ元気なころである。中国東北部の小さな町を訪ねた時、バスの中から眺めていると野菜を満載した小型トラックがバスを追い抜いて行った。一行の一人が「おっ、この街はなかなか大した町だ。流通がしっかりしているようだ。」野菜のトラックを見て「この街は大した町だ」と叫ぶこの男の見識にわれわれは感心した。ある国際会議に参加したわれわれ一行は、街づくりの専門家だったが、たいていは住居や道路の整備状況を見てその街の近代化ぶりを判断していたのだから。その後、ロシア沿海州の都市/ウラジオストックに入ったわれわれは共産党敗北後のソ連からロシアに代わったばかりの街をつぶさに見た。極東を攻撃せよ(ウラジ・ウォストーク)という名の帝政ロシア以来の軍事拠点都市である。ソ連が崩壊し、外国人にもつい1年前に開放されたばかりの都市であった。市役所近くの公園で市民同士が論争していた。片方は改革支持派らしく、共産党敗北後「自由になった」と言っていた。もう一方は共産党支持派らしく「1年前は牛乳もバターも自由に買えた」と主張していた。私にとってもソ連やロシアは初めての旅行で共産党政権の歴史的な崩壊現場に立ち会っているという昂揚があった。
ウラジオストックは東洋の端っこにありながらシベリア鉄道の終点であり、ヨーロッパ風の建築が目立つ珍しい風景であった。当時はソ連崩壊の影響でルーブルが暴落しており、円換算でもルーブルの価値は紙くず同様で、気の毒なほどであった。ビニールコーティングをしたこの街の地図は数円で実感は100分の1程度。外国人向けのレストランは普通の料金だが、自由行動で市民向けの食堂にはいるとランチは20円足らずで旅行者にとってはタダ同然であった。メニューは特に貧しさを感じさせるものではなかった。肉や魚も特に不自由しているようには見えなかった。ただ北の国だからか、野菜類は豊かであると思えなかった。数日の滞在中何度かの食事も肉や魚、乳製品にも不足はなかったが付け合わせの野菜はいつも干からびたようなトマトがわずか、特に食べたいわけではないが胡瓜やキャベツはないのかと不思議に思っていた。
スーパーマーケットか卸売市場かと見まがうような処へ行ったが、そこでも半解凍状態の魚類や肉類はあったが野菜類は見られなかった。ウラジオストックはロシアの東南のはずれにある都市で、ロシア領と言えばそれより北側。ウラジオストックにしても「比較的温暖」というものの冬は零下40度を下回る気候である。日本のような夏野菜が豊富に出回っているとは思えなかった。ロシアでは昔から「ダーチャ」という個人の別荘の所有が定着しており、労働者層でも郊外に60坪程度のダーチャを所有しているのが普通だ。野菜の流通システムはないようだが、このダーチャの菜園で作ったトマトなどが商品として流通しているようだ。トマトができるのだから、夏場に多少の野菜はできるようだが流通システムができるほどの商品化はできていないようだ。あとははるか遠くのコーカサスやウクライナから保存のきく野菜が届けられているのだろう。
日本に帰れば1年中どんな野菜でも手に入る。真夏にも冬野菜は買えるし、真冬にも夏野菜が買える。今ではこの野菜の旬はいつごろだったか忘れてしまうほどだ。野菜に限らず、穀類にしても魚にしても、世界中のあらゆる食品が手に入る。今では青梗菜(ちんげんさい)など外国原産の野菜という気などしなくて普通の食卓に上っている。近頃は「フードマイレージ」などという考え方が流行していて、産地から食卓への移動距離が長すぎるのはいかがなものかという考え方がある。こうなると「地産地消」が脚光を浴びるようになり、過剰な流通システムも商店数も不要になる。私の住む地域のように日常生活圏に10店近くの競合する大型店がある地域に住んでいると、あの野菜を満載したトラックが走っていた中国辺境の町や、季節のわずかな野菜しかなかったようなロシアの町が今はどうしているのか興味深い。
2008.09.08.