NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第231回 「反抗期」

By , 2008年6月18日 12:15 PM

「反抗期」というのは分らないことの一つである。相談にやってきた親の多くが「うちの子には反抗期がなかったと言うので「引きこもりの子は反抗期に反抗しない」という仮説を立ててみたが、その後の相談では「うちの子はしっかり反抗していた」という例が続出。仮説は撤回したが「反抗期に反抗しないことは良くない」ことではあるらしい。「反抗期」とは何だろう?

2~4才ぐらいの赤ちゃんは最初の(第一)反抗期だという。私の孫は間もなく2歳になるが、まだ反抗期の兆しは見えない。かわいい盛りの子どもだが、言葉を覚えだして、自分の頭でいろんなことを考えているのが分かる。これまでは親や周囲の人の言うことを聞いて、成長していくのに必死なのだろうが、やがて自分で考えたことを周囲の人に伝えてそれが通用するかどうかを確かめようとするのだろう。反抗しようなどという意思はないのだろうが知能の発達にとっての通過儀礼(イ二シェイション)というのか、成長にとっての避けることのできない関門である。こちらの第一反抗期は、ほとんどの人にとって大過なく通り抜けるのだろうが、第二反抗期の方はそうはいかないらしい。

13から15歳、といえば中学生。中でも14歳の中学2年生頃は第2反抗期の中心。この頃は頭脳も肉体も大きく成長し、ほぼ大人になりかける時代。第2次性徴も明確になり、いわゆる「扱いにくい年代」である。中学校の先生なら経験済みのことだろうが、中学1年生は未だ可愛らしい子ども、中学3年生は変声期も終わって大人っぽく落ち着いている。中学2年生は何事にも歯向かって、難しい年代。少年期の心理調査などをする場合、たいていは小学校5年生か中学2年生を対象に行う。他の学年に比べて著しい特徴がみられる。私は引きこもりも14歳を中心とする中学時代にその発芽が見られると主張している。この時期に就労の問題など人生の将来の問題を考え始め、最初の壁にぶつかる若者が多いからである。

第一反抗期は乳児から幼児への成長の過程であり、その反抗は可愛らしくも微笑ましくもあるのだが、第二反抗期になるとそうはいかない。右と言えば左、上といえば下、そんな即自的な反抗ではない。何しろ自我というものに目覚め、それまで親や先生の言いなりになってきたのだが、そんな自分自身を含めて全否定しようとしているのだから、右や左、上や下の選択肢の問題ではない。素直な自分そのものにも反抗しようというのだから、周りの者からすれば取り繕いの仕様がない。これも通過儀礼のひとつなのだろう。このような時期を経て、大人に成長していくものなのだ。

「反抗期に反抗しない子は引きこもりになりやすい」私がそう思ったのは反抗し、それに挫折することによって幼児期の「万能感」が修正される。反抗期を通過しなかった子は「万能感」が持続され、その後の挫折によって青年期になって無力感に襲われるのではないだろうか。しかし私がこの仮説を修正せざるを得なかったのは反抗期がないのは引きこもりに限らない。現代では反抗期がないのは若者一般に見られる現象で、引きこもりに限ったことではないらしいのである。「第二反抗期に反抗しない」というのは引きこもりになることにとっては少なくとも必要条件であっても十分条件ではないのである。ただし、現代の若者はすべからく引きこもりになる素地を備えているともいえる。

なぜ最近の若者は反抗期に反抗しないのか?ひとつにはこの時期、若者は忙しすぎる。学校から帰れば塾。受験勉強やあれやこれやに忙殺される。反抗などしているひまもないらしい。もう一つは親の変化。反抗期に反抗の芽が表れ始めると、親はびっくりして子どものご機嫌を取り始める。ある意味、子どもの成長に敏感すぎて、優しすぎる親が増えている。反抗しようと思っても、反抗の種があらかじめすべて刈り取られてしまっている。良いことか、悪いことかは分らないが反抗期だけれど反抗のしようがないのである。

引きこもりの相談に来るような親は、すでにあれこれと考えているようだが、「うちの子は反抗期がなかった」という。「なかった」のではなく、親が「無くした」のである。秋葉原無差別殺傷事件の加藤被疑者も小中学生時代は、トップクラスの成績で優秀な生徒だったようだ。ただし彼の話によれば「親が書いた作文で表彰され、親が描いた絵で表彰され」るような「つくられた優等生」だったようだ。このことは「県下一の進学高校」に進んだ後は彼のコンプレックスの原因のひとつになったようで彼のその後の人生をたくましく切り開いていく武器にはならなかったようだ。引きこもりの若者の親は、「自分たちの育て方が悪かった」とか「自分たちの愛情が足りなかった」と「反省」を口にする。しかし子育てに王道はない。間違いのない子育て法などない。秋葉原事件の加藤被告の親にしても、作文や絵を代筆・代書したのは「愛情不足」などではなく、むしろ過剰な「愛情」からではなかったのか?競争社会で、わが子に少しでも高い位置を手に入れさせるために歪んだ愛情を押し付けようとしたのではないか?

秋葉原事件の加藤被疑者の少年期に反抗期がなかったかどうかは分らない。また事件の背景には派遣社員制度など若者に希望を与えない労働システムがあったのは事実だろう。 朝、出勤した時ロッカーに会社支給の「つなぎ(作業服)」がなくなっていた。解雇に向けた嫌がらせと誤解して、日ごろの不安や不満が爆発して犯行へのブレーキがはずれたのだろう。彼の絶望的心境やチラつかされた解雇など犯行への動機は理解できる。今月の例会でも話し合ったが、被疑者の心境に理解を示す若者も多いが、無差別殺人に同意する人は一人もいなかった。動機は理解できても、犯罪の実行には否定的。それが良識のある若者の判断力である。怒りを覚えても、その先の行為の実行には自己抑制力が働く。私の信じたいのは不正義に怒りは働くが適切な自己抑制のできている若者なのだ。犯罪を実行してしまった若者を一方的に非難する者たちの列に加わる気はないのだけれど、怒りから直線的にキレて犯行に及んでしまった若者を認める訳にもいかない。反抗期を経ない若者は、自分の意識や願望が必ずしも満たされないこともあるという経験を経ていない。青春期に挫折を経験していない若者は、自己抑制の仕方を学んでいないのでキレやすい。成人してぶつかる世間の壁に対して、自己抑制というブレークスルーの仕方を知らない。青年期心理学としての反抗期の意味はよくわからないのだが、大人への通過儀礼としての反抗期は避けて通ることのできないもののようだ。

2008.06.18.

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