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直言曲言 第215回 「人生のムダ」

By , 2008年1月21日 11:29 AM

マラソンの途中でちょっと気に入った店を見つけたからといって、コースを外れて寄り道して立ち寄ると言うのは「マラソンのムダ」と言われても仕方ないだろう。マラソンは決められた距離を少しでも短い時間で走る競技だからだ。でも順位を競うでもなく、記録を狙うでもない場合、少々の寄り道は『完走』するには良いことなのかもしれない。『人生のムダ』とは何だろう。人生は距離を走るだけでもタイムを短縮する競技でもない。人生レースの途中で寄り道をしても、休憩をしてもそれが無駄であるとは誰もいえないのではないか。そもそも『人生の目的とは何か?』60歳を超えて、脳梗塞により身体障害者の身になり明らかに『人生の終盤戦』を闘っているはずの私にも分からない。少なくとも私は今も人生を闘っているし、楽しんでいる。身体は不自由であるが日々を人生の無駄な時間とは考えていない。

私は社会的ひきこもりの支援をしているし、引きこもりからの脱出を応援している。どうしたら脱出できるのかのアドバイスを行う。だからと言って引きこもりを人生のムダと考えているわけではない。相談に来られるご両親は、引きこもりを人生のムダと考えておられる方が多い。その『ムダ』をなくして何をやらせようとしておられるのだろうか。一番多いのは、やはり就職をさせようとしている方だ。ついで休学中の高校や大学に復学させようとする方である。就職をしたり、復学をすると人生のムダがなくなると思っておられるのだろう。仕事に就くことや学校に行くことが人生の目的だと思っているのか。

引きこもりだけではない。フリーターをやっているのも人生のムダと考えている。こちらは親御さんではなく、本人がそう考えている人が多い。フリーターと言うのは低賃金で不安定雇用。いつ首を切られても文句は言えない。あまり褒められた身分ではない。しかしだからと言って人生のムダと言えるだろうか?5年間フリーターを続けていたらその5年間は人生のムダというわけではない。仮に社会的には無意味な5年間であったとしても、何もしなかったわけではない。何も考えず、何も見なかったわけではない。そこで見たことや考えたことは、必ず人生の役に立っている。

ところで人生のムダって何だろう?あるいはそもそもムダって何だろう?ムダのことを広辞苑では『役に立たない』『益にならない』と書いている。案の定、何かのためになるとか損得勘定の話である。人間はそんなに何でも損得の計算をしながら何事かをなすのであろうか?ましてや人生って損得勘定をしながら生きるもの?いや、実際には人生を、損得、ムダかムダでないかで計りながら生きている人は少なくないものだ。自分の人生をそのように考えているのは勝手だが、他人の人生、わが子の人生をそのように考えて批判をするのは好ましくない。『役に立たない』『益にならない』と考えるのは人生が『何か役の立つもの』あるいは何かの『益になるべきもの』だと考えているのだろうか?人生に目標を持つのは悪くないだろう。それによって生きがいややりがいを見つけ、意義の深い人生を送ることが出来るかもしれない。しかし、人生の目標や目的をただ一つのものや事にだけおいてしまうのはどうだろうか。下世話にもよく言われることであるから、ここで改めて申し上げるほどのことではないが、例えば人生の目標をお金儲けに置くのは淋しい。豊かになることや幸せになることと言うのなら、分からないでもない。もちろん金銭的、物質的な幸せだけではない。残念ながら、こうした金銭的、物質的な幸福感、つまりお金持ちになりたいと言うのは貧しい人に多い願望である。私も幼時に貧しい生活をしていたので、金銭的な欲望は強かった。勉強をしたのも、大学に入ったのも貧困から抜け出すためであった。貧困は今でも打倒すべき、なくすべき敵であり、罪悪だと思っているが、私が学生だった1960年代、日本は高度経済成長期で貧困と言うものが見えにくくなった。むしろ豊かさの醜さというものが目に付くようになってきた。

今も貧困が根絶されたわけではない。むしろ豊かな時代である。しかし、今も若者は物質的な豊かさや目に見える幸せばかりを追求しているように見える。若者は豊かでも、彼らの両親は貧しかった頃の記憶を持っている。子どもに経済的な苦労をさせたくないという気持ちは分からないでもないが、すべての行為がと言ってよいほど金銭を稼ぎ、金銭を守る守銭奴のような行為の価値基準になっている。子どもが満足するような就職を望むのは当然としてもそれは給料のよしあしだけではないだろう。生涯賃金が他人よりも高ければ人生の成功者と考えるのか?私のように60歳を過ぎれば同級生の中にも定年を迎えた人が出てくる。中学を卒業して就職したが安定せず、職を転々としてついに定年を迎えたおじいちゃんもいる。一方大学の同級生で浪人もせず留年もせず、卒業すると一流企業に就職し重役となって定年を迎えた人もいる。たしかに退職金の額は一方は莫大で、他方はほとんど退職金などないに等しい。しかし、どちらが楽しく有意義な人生であったかと言うと分からない。話を聞いていると、貧しかったはずの人のほうが波乱万丈で、片方はあまりにも単調であったような気がする。少なくとも、20才前後の頃片方は落ちこぼれのような評価を受け、もう一方は将来を嘱望されていたが、40数年経ってみるとそれほどの差はなかったようにみえる。転職や退職もあながちムダではなかったようだ。

『人生とは何だろう?』古来様々な小説家や思想家が考え悩んだテーマだろうから、私ごときが考えても無駄かもしれない。私は『人生とは祭りのようだ』と考えている。太鼓や笛などのお囃子の音が聞こえる。お神輿を担ぐ男たちの怒号が聞こえる。巫女さんたちがお神楽を踊る鈴の音が聞こえる。縁日のさんざめきが聞こえる。出会いもあった。別れもあった。老いも若きもがすれ違い、皆美しかった。喧嘩騒ぎもあった。やがて花火の音も遠ざかり、遠い日の記憶のように薄れて消えていくのか?祭りの終わりははかなく、淋しい。しかし誰も悲しむ必要はない。また次の祭りがやってくる。やがてはあなた自身も過ぎた祭りのように懐かしまれる時がやってこよう。今はまだその祭りを一所懸命に楽しめばよいだけだ。

提灯に照らされた明るい境内も、町外れの暗い物陰も、祭りには何一つ無駄なものなどはなかった。目くるめく歓喜の舞も、淋しい永久の別れも、祭りの物語には欠かせない。どこにも無駄な光景など一つもないのだ。人が何を言おうと、あなた人生の祭りのひと時を大切に生きるべきだ。

2008.01.21.

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