直言曲言 第208回 「自由にしなさい」
社会的引きこもりは複合的な『現代病』であるといえる。『病』ということに関して、私は過去10年間『引きこもりは病気ではない』と言ってきた。『現代病』だというからといって宗旨替えをするつもりはない。引きこもりをいわゆる精神病と混同する人が多かったので、あえて『病気ではない』と言ってきたつもりだ。今でも『引きこもり』を『病気』だなどと言うと、馬鹿な医者どもが『治療をしなければ』とか『治療できる』と思ったりするから、用心しなければいけない。現代病というより、現代に流行の精神症状といった方が良いかもしれない。お医者さんでも適切に治療してくれるならば良いが、症状も原因も分からずに、すぐに薬物投与をするのが彼らの習慣である。
複合的なといったのは、特殊な影響力を持つ単一の原因なら、100万人以上と言われるほど引きこもりの大発生につながらないと思うからである。10年に及ぶ私の観察では①競争社会である。②豊かだが出口の見えない社会である。③は②の『出口の見えない』ということの一つだが、氷河期といわれるほどの就職難であった。④閉鎖的な人間関係。つまり家族は閉ざされており、コミュニティは崩壊しつつある。この4つの原因があり、それらは相互に関係するが、そのうちの一つでも人を引きこもりにしてしまうほど影響力がある。ただ、この社会的要因である4つが原因となるだけで引きこもりになるとは思えない。これは現代社会に蔓延する風潮であって、これだけが原因であるなら、若者のすべてが引きこもりになってしまう。実際には同じ社会に生きていて、引きこもりにならない若者も多数いる。つまり主要な社会的要因がありつつも、個人的な心理的要因も働いて社会的引きこもりは発生するのである。
精神病の分類は多々あるが、その一つは心因性の精神病である。器質的(外因的)な疾患以外で、環境要因やストレスなどが発症要因とするもので、私もその存在は認める。環境要因やストレスに原因があるとするのであるから、私が主張するように4つの社会的要因も含まれるのであろう。ただ、精神科医たちは物理的・化学的な治療を探求するだけで、社会的な要因の除去については関心が薄そうだ。私は引きこもりは、4つの社会的要因に心因的な要因が重なって発症すると思っている。これまで精神科医たちによって看過されがちな社会的要因を重視して発言してきただけだ。
社会的要因は一旦棚上げしてどんな心的要因が引きこもりを発生させるのか。引きこもり経験のある若者たちに聞いて見た。周囲の人のどんな言葉が、あなたを引きこもりにさせたのか、あるいは立ち止まらせてしまったのか。ニュースタート事務局千葉の鍋の会では『考えなさい』という言葉が私を立ち止まらせたという。あることで悩んでいるとき親から『良く考えなさい』といわれた。親の考えを押し付けるのではなくて、子どもに『よく考えなさい』という。なかなか出来ないことだと思う。そこでその人は良く考えて、考えを親にぶつけて見た。すると『もっとよく考えなさい』という。考えても考えてもきりがない。結局親の思うような考えに至るまで『良く考えろ』というだけだったのである。
関西でもある会合で同様のことを聞いて見た。親を初めとする他人の言葉、それに自分の観念。自分の観念に自縄自縛になってしまい、動けなくなってしまう人も少なくないからだ。
大学に進学するとき、親が勧める大学に気乗りがせず、中途半端な気持ちのまま受験して2浪してしまった人がいる。その後引きこもり同然の生活をしていると親が突然、『もう、好きな大学を選びなさい』と言い出したという。親の勧めていたのは気乗りしない大学だったので『好きな大学を選べ』というのは歓迎すべき事体のはずだが、その時彼は「見捨てられた」という気持ちを強く持ったという。もうひとりは、大学4年のとき就職活動もせず卒業してしまったのだが、親は就職することに強い期待を持っていた。その後無職のまま5年ほど、引きこもり生活を続けていたのだが最近は「就職しても、しなくても良い。自由にしなさい」というそうだ。「自由にしろ」と言われて、却って「どうしたら良いのかわからなくなってしまった」自分を感じているそうだ。
それ以上詳しい事情を親から聞いたわけではない。いずれにせよ親が我が子に希望を押し付けた。引きこもりになった我が子を見て、押し付けがいけないと気付き「自由にしなさい」と言いなおしたのだろう。良くあることだ。医者である親が、我が子に医学部受験を押し付けたり、親の跡を継ぐことを押し付ける。世襲を無理やり押し付けるのでなくても、それが自明のことであるかのように仕向けていくのも、子どもにとっては同じようなプレッシャーに感じる。競争社会の中で、我が子に少しでも豊かな一生を送れるように医者の道を進ませようとする。親として尤もなことである。医者でなくても大学進学や職業選択において、少しでも我が子に有利な道を選ばせようとすることは、親の心情として理解できる。それを親のエゴ、親の身勝手として非難するつもりもない。しかし、その結果子どもが引きこもってしまったからと言って、「好きにしなさい」「自由にしなさい」と言うのはどうだろう?
引きこもりになる子の親は、決して過保護でも、放任主義でもない。ただ、子どもがかわいく、子育ての経験が乏しいだけだ。引きこもり気味になる我が子を見て、わが身を振り返り、己のエゴを押し付けたのではないかと反省し、「自由にしてよい」と言うのだろう。医者に限ったことではない。職業問題に限ったことではない。成人に近くなった子どもに、あれこれと自由を制限し、あらゆることを 親の考えや経験を下に判断し、あれこれと手を打ってきたのではないか?子どもが少しでも躓くと支えようとして手を差し伸べる。あまつさえ、子どもが少し引きこもると、一大反省して、私たちの子育ては間違っていた。これからは子どもの個性を尊重しようなどと言う。子どもにしてみれば「あれほど、何でも押し付けがましかった」親が突然「自由にしなさい」などというのは、それこそ私の可能性に絶望して、見放されたのだ、と思うのだろう。『自由』と言う言葉にどれほどの大きな責任が含まれているのかを理解していない。何でもかでも、親の思うがままに押し付けてきた子に、急に自由に物事を選択できる能力があると思うのだろうか?戸惑うばかりであろう?
私(西嶋)も60過ぎの「おっさん」である。3人の子を育ててきた。「ああすれば良かったこうすればもっと良かった」と子育てを反省することもある。だから親たちの気持ちが分からないではない。しかし今の親は物分りがよすぎる。すぐに反省する。親自身がが「良い子」になろうとしすぎているのではないか。もう少し頑固であっても良いのではなかろうか。
幼いころからあらゆることを親がお膳立てし、思うように育ててきたわが子なら、中途半端なところで「好きにしなさい」とか「自由にしなさい」などと物分りのよさそうなことをいわずに、とことん保守的な親に徹して、最後まで親の意思を押し付けて見たらどうか?「お前には学部選択も職業選択の自由もないのだ」と。その代わり、何年浪人するかは分からない。卒業しても国家試験に落ちるかもしれない。そして、「こんな親に私の気持ちが理解できるとは思わない」「絶対に親の後など継ぐものか」と決意している子どもには、親を「捨てる」自由は認めてあげるしかあるまい。
2007.11.05.