直言曲言 第203回 「オヤジの役割」
引きこもりの相談に来られる親御さんは半数が夫婦同伴、半数はお母さん単独である。残念ながらお父さん単独で来られる例はほとんどない。お母さん単独で来られた場合『今日はお父さんはどうされましたか?』と聞くようにしている。『夫は、今日は、ちょっと用がありまして…』と口をにごらせる例が多いが、中には『よく聞いていただきました』とばかりに、夫が子どもの引きこもり問題に如何に無関心かを訴える人がいる。確かに若者の引きこもりストーリーに父親が登場する場面は驚くほど少ない。私が思うに、父親というもの、引きこもりに関心がないわけではなく<親の発言が無力>だということを知って、母親に問題を押し付けてしまっているようだ。
引きこもり問題は子育てにおいて父親が役割を放棄してしまったせいではないか?と考える人が多いようである。ニュースタート事務局関西のホームページでも『掲示板』にgonnda さんという人が『父性的対立の必要性』ということを書いている。それによると『若者の問題行動の裏には「強い父性を求めるところがある。」』としている。『厳然たる態度で対決し、母親の情と切り離さなければおぼれるようにズブズブいく』とある。同感である。父親に限らないのだが、近頃の親は『友達親子』と称して、子どもに優しく昔の頑固親父のように子どもを叱りつけないひとが多い。戦後民主主義の影響だろうか、マイホーム主義の影響だろうか。それで子どもも伸び伸びと育てばよいのだが…。しかし私は『父性の必要性』のようなことは言わないようにしている。こういうことは案外単純化して考える人が多く、『父性の必要性』のようなことを言えばすぐに『父性の復権』などと考える人が出てきて、やたらとエバッたり、スパルタ式の教育が流行したりする。マスコミなどの論調が単純化しやすい影響でもある。家族の崩壊が問題になったときにも『家族の復権』とか『家族の絆を取り戻せ』とかの論調が流行った。核家族の増加もそうだが、家族形態の変遷は社会システムの変化に伴うもので、家族のクビキや封建的な旧家族システムの問題など色々あって、一概に家族の絆を強めればよいというものではない。『愛国心』などというものも同じで、私は『愛国心』は悪いものではないと思うが、自発的に生まれるのが『愛国心』で他人にとやかく言われて押し付けられるものではない。
それと『父性』というものが、果たして『母性』とは違う何か独自の価値あるものを含んでいるのか?自信がない。母親は、父親とは独自に出産や授乳を行う。そこから母親独自の心性というものが生まれるのかもしれない。一般に『父性』といわれている言葉がなにを指すか、私も分かっているつもりだが、それは現代日本における性の役割分業が生み出したイメージに過ぎないのではないか?古今東西を問わず『父親』というのは『こんなもの』というイメージなどあっただろうか?現代日本においては父親と母親には愛情表現の仕方や叱り方に差があるだろう。しかしそんなものが男性と女性の本質的な差からきているものだとは思えない。
もう一つ私が『父性の復権』などといわないことの理由がある。相談に来る半数の人が母親単独だと言った。そのうち、少数だが夫が死んでしまっていない人や、離婚をしたシングルマザーがいる。女手一つで子育てをしてきた母親だから、夫がいないことにも簡単に泣き言を言うわけではない。死別したにしても、離婚したにしてもそれなりに受け止めていて何でも簡単に夫の不在のせいにするわけではない。しかし相談が一通り終わって雑談に入ると、『父親がいなかったから』引きこもりになったのではないかと心配する母親は少なくない。多くの他の母親同様に、自分たちの育て方が悪かったから引きこもりになったのではないかという心配だが、私は引きこもりというのは育て方の問題ではありませんということにしている。少なくとも、あなたの離婚がお子さんの引きこもりの原因になったとは考えられません。離婚が子どもの引きこもりに影響を与えるとしたら、子どものいる母親は離婚すべきではないということになる。
引きこもり問題の陰に父親の影が薄いという事実はある。しかしそれは単に父親不在の問題ではなく、父性の欠如の問題でもない。既に引きこもり問題を『豊かだが、出口の見えない競争社会』という社会の現況であると指摘している私には、あれこれと他の理由を追加しなければならない理由はない。しかし、引きこもり問題に社会的原因を指摘するからと言って、家庭的な原因が皆無だとは言えない。社会的な原因がすべてだとすれば、同じ社会の影響を受ける人はすべて引きこもりになってしまって不思議はないことになる。
人間は社会的な動物である。社会的な動物である以上、社会的な教育を受けるべきである。学校教育とは科学的な知識を身につけるだけではなく、様々な社会的知識も身につける場である。ところが今の学校教育では、親も先生も、競争を勝ち抜き、上級の学校へ進むことだけを目的にしている。学校がそんなところになった以上子どもはどこで教育を受ければよいのだろう。現代社会では若者が社会から引きこもっているだけでなく、人々は皆、家庭に引きこもっている。社会が信じられなくて家族を防波堤にして引きこもっているようだ。子育ても、夫と妻の二親だけで成し遂げようとしている。両親だけで出来なければ、親が稼いだお金で子どもたちを良い学校に入れ、それで良い社会人に育てようとしている。昔はどうだったろう。お祖父ちゃんがいた。お祖母ちゃんがいた。叔父さんがいた。伯母さんがいた。血はつながっていなくても近所の小母さんがいた。今は核家族である。お祖父ちゃんと、お祖母ちゃんは盆と正月に里帰りしてお小遣いを貰う存在でしかない。助け合って暮らしていけるようなコミュニティもなくなった。昔は大家族の中で祖父祖母伯父叔母が子育てに協力していたのではないか。近所の長屋のおばちゃんたちの眼も子育てを見守っていたのではないか。ガキ大将のお兄ちゃんお姉ちゃんも人付き合いのイロハを教えてくれていたのではないか。それらがみんななくなって、人を信じられない世の中で、父と母だけがお金の力を借りて子育てをさせられているのではないか。父親の不在などの問題ではない。子育てには夫婦二人でも力不足なのだ。ましてや父であれ、母であれ多忙な現代社会の中で子どもたちに眼が行き届くであろうか。
両親二人でも、子育てには力不足である。だから共同体社会の力をあわせて子育てをしていこう。これがNPO法人ニュースタート事務局理事長の二神能基氏が提唱する『子育て長屋』の基本理念である。父親だけが問題なのではなく、子育てはただいま人不足なのである。
2007.09.11.