直言曲言 第202回 「羽化」
今年も毎夏恒例の海水浴、2泊3日の海辺旅行が無事終わった。この旅行は春に入居した寮生たちの順調な回復振りが見られるので楽しみである。そしてもうすぐ夏が終わる。夕方になるとツクツクボウシの声が聞こえ、旅先では秋の虫の声も混じっていた。
私の家の横に公園がある。公園といっても小さなブランコと滑り台が1つずつ、それに小さな砂場があるだけのどこにでもあるような児童公園である。児童公園の隅に欅(けやき)の樹があり、夏になると蝉の声がうるさい。例年そうだが、今年も新聞が梅雨明けを告げるとその日から蝉が鳴きだして、寝ていられないほどのうるささだ。私は窓際にベッドをおいて寝ているが、欅の木はその側にあり、夜明けとともに鳴きだす。ミ―ン、ミーンとかカナカナだったらまだ風情があるのだが、ジージー、ジージー、ぐぁーし、ぐわーしとあまりうるさいので、時折かっとなって大声を出す。『うるさーい』と。すると一瞬、声が静まりかけるのだが、すぐに何事もないと分かると、またやりだす。蝉の一生というもの、知識としては知っている。卵や幼虫の形で6~7年、地上で成虫になったら一週間ほどの寿命だそうだ。はかない命なのだから多少うるさいのは辛抱しようと思うのだが…。
今年の夏も、高槻市内のA高校の生徒たちが、鍋の会の見学にやってきた。総合学習の時間の一環で、社会活動を学ぶためにやってくるそうだ。そのリーダーの一人であるK君は自己紹介のときに『この夏の抱負は?』と聞かれて、『蝉の羽化の現場が見たいです』と答えた。高校生の発言にあまり敏感に反応するのも問題だが、私はこの高校生たちの見学会には余り好意を抱いていない。例年のことだが、見学に来る高校生に『問題意識』があまり感じられないのだ。時々高校生に質問するのだが、何を学びに来ているのか、それすら答えられない。『引きこもり』というのはあまりにも当事者世代の問題であり、『理解』をするというのは難しいのかもしれない。K君の発言を聞いて、私は『この人は相当頭の良い子なのだろうなぁ』と思った。『羽化の現場を見たいのなら…』とひとしきり、色んなアドバイスが飛んだ。
蝉のよく来る木の近くに行くと地面にいくつかの穴が空いている。蝉の幼虫が出てきた穴だ。幼虫はこの穴の中で6年も7年もじっと暮らしてきたのだろう。そこから抜け出した幼虫は近くの木の幹によじ登り、じっと羽化のときを待つ。夏の朝、その幹に近づくと羽化の瞬間を目撃することもあるだろう。
K君はどんなつもりで言ったのかは知らないが、ニュースタートの共同生活寮は羽化の現場だ。寮生を蝉の幼虫に喩えるのは失礼かもしれないが、引きこもりからの回復を待つ寮生の姿は羽化を待つ幼虫の姿に似ている。
ニュースタート事務局は社会的引きこもりからの回復への支援団体である。社会的引きこもりとはいわば幼虫のまま地中の巣穴に引きこもっていて出てこられない状態である。事務局や家族、レンタルお姉さんなどが協力して巣穴を掘り起こし、大きな木の幹に留まらせてやる。後は自力で羽化するのを待つだけである。稀に、羽化を待つだけの状態であるのに、その羽化がなかなか出来なくて苦労する場合がある。幼虫としての殻が硬すぎて脱皮できない、羽化できないのである。いつまでも蝉の比喩だけでは理解しにくい人もいるかもしれない。
引きこもりはある意味で『青春時代の夢の挫折』である。基本的な社会的条件は、豊かな社会なのに出口のない競争社会にある。子ども時代は単純な立身出世を夢見る。 その為に高校受験や大学受験などの競争を強いられる。しかし、ある程度の社会的観察眼が成熟するとこの世の中はそれほどたやすいものではないことが分かってくる。具体的に言うと、大学を出ても希望の職種に就けるかどうかは分からない。それどころか就職氷河期などといって、ほとんど就職のない時代である。それでも相変わらずの競争は強いられる。競争に耐えられない若者は、将来に絶望して引きこもる。筆者たちが若かった時代は日本中が貧しかったので、不本意な就職でも我慢したが、今は豊かな時代である。不本意な就職を選ばなくても親が食わしてくれる。これが引きこもりが増える原因である。厄介なのは引きこもりの過程で、ほとんどの若者が人間不信や対人恐怖から人嫌いになってしまう。ニュースタート事務局ではまず友達を作らせ、人間関係に慣れさせることから始める。
羽化の現場であるはずの共同生活寮だが、希に羽化し切れずに苦しむ若者がいる。努力はしているのだがなかなか友達に馴染めない。苦しんでいる自分の姿を意識すること自体が苦痛である。私は競争社会に絶望しきれていない『不完全引きこもり』だと思う。競争からは脱落したが、競争社会に未練があり、周囲の同世代を見ると友達候補としてよりも競争相手として見てしまい、仲間になれない。残念ながら特効薬はない。競争社会に未練があるのなら、思い切って競争社会に復帰するのも一つの方法であるのではないかと思う。引きこもりになることも出来ないのであるから、羽化することをあきらめて幼虫のまま生きていくことも一つの方法ではないか。
蝉の羽化に喩えて話をしてきたが、分かりにくければ鶏の卵でも良い。鶏の卵から生まれるのはひよこである。羽化の現場である共同生活寮は言い換えればインキュベーター(孵化器)であるともいえる。卵からの孵化でも当然個体差はある。当然ひよこに孵る時期が来てもなかなか殻を割ってひよこができないことがある。殻を割って出てきたのだが、お尻に殻を半分つけて歩き廻っているのもいる。未熟者の喩えにもされるくらいだからなかなかユーモラスなものである。しかし、卵が孵る時期が来ているのに、中から一向にひよこは飛び出してこず、うんともすんとも言わないのは、親にとって不安なものである。親によっては色々と心配した挙句、コツコツと殻を突っついて、孵ることを促そうとする親もいる。だけど親として許されるのはそこまでだ。嘴で突っつくのは良いが、ヒナに孵るのが遅いからといって、それ以上してはいけない。殻を割ってヒナを孵そうとすれば、未熟な玉子の液体が流れ出さないとは限らない。
この場合も、卵の殻が固過ぎるのだと思う。卵の殻にはある程度の固さが必要である。養鶏家によっては貝殻の粉末などカルシウムを与えて丈夫な卵を産ませようとする人もいる。しかし、競争社会を勝ち抜くためにあまりにも固い殻をつけさせようとすると、引きこもりになってしまう可能性が高い。殻が固すぎると、引きこもりからの脱却も出来ず、苦しみを味わうことになる。
イタリアに旅行するとローマ市内の中心部に、まるで東京ドームがあるように巨大なコロッセオ(闘技場)の遺跡がある。このコロッセオを見ると想う。ハリウッド映画で見たように剣闘士として殺しあうこと、闘うことを強いられた奴隷たちは、次第に殺人マシーンとして自分を育て上げていったのだろう。まるでそれが生きる義務のように。戦うことに絶望した奴隷たちは引きこもることも許されなかったのだろう。競争社会を形作り、子どもを剣闘士のように育てていくということはなんと罪深いことであるのか。
2007.09.04