直言曲言 第198回 「持続可能性」
ニュースタート事務局関西のホームページ上で、私がこの雑文『直言曲言』を書き始めて6年になる。回数にして今回で198回。間もなく200回の大台に至る。われながら良く続いてきたものだと思う。最初のうちはニュースタート事務局関西の活動の合間に引きこもり支援に関して思うことを書き続けた。書くことが次から次にと浮かんできて、回数など意識しないうちに100回を超えた。ある程度意識的に書き続けたのはこの頃からだろう。引きこもり問題への感想や理論的な疑問点などについて書き綴った。引きこもり問題について取り組み続けてきて、思いつきのような発言についての反発もあった。専門家と言われる人たちの理論的な曖昧さに対して、これを批判しなければならないという社会的な使命感もあった。
直言曲言は毎回A4で2枚程度、400字詰め原稿用紙にして7.5枚程度の分量であるので、間もなく200回になると、1500枚程度のボリュームになる。6年以上かかったとはいえ、かなりのものであると思う。2年前の9月に脳梗塞をわずらったが、何とか命を取り留めたと知ったとき、最初に気になったのは直言曲言を書き続けられるかどうかであった。一つは脳梗塞は脳の一部を破壊していると言うし、読者に理解してもらえる意味のある文章を書けるのかと言う心配。こわごわ書いていたが何人かの読者から続けるようにとの励ましを貰った。もう一つは左半身不随の状態でパソコンのワードを操作できるのかと言う心配であった。最初は随分不自由だったがそのうち慣れた。何のことはない。シフトキーは右側にしかないと思い込んでいて、拗音や促音は右手だけで同時に押すものと思い込んでいたが、シフトキーは左にもあり、シフトキーを押すだけなら左手も使えることに気付いたのだ。最近になって、200回が近くなると、どうしても200回までは書き続けたいと思いながら、テーマに苦労するようになった。数回の例外はあるが、ほとんどは引きこもりに関連するテーマである。引きこもりの原因だと考えられるテーマや、引きこもり本人、引きこもりの親に対する注意事項などを書き続けてきたと思う。正直に言って、引きこもり問題についての新しい発見のようなものはほとんどなくなってきた。これでは書き続けることが出来るのか心配になってきた。今まではほぼ、引きこもりのことを書いてきた。大学時代の専攻学科ではないが、関心の深かった社会学や経済学の知識を使って引きこもりの現象学的分析を行ってきた。これからは引きこもり研究を通じて培った分析手法を用いて現代社会批判を書いていこう。それで何とか当面の持続可能性は保てたと思う。
前置きが長くなった。今回のテーマは社会システムの『持続可能性』。私は引きこもりの問題を「若者が就職できないことによって社会参加の機会を奪われているからだ」と主張している。しかし前回の『直言曲言』でも述べたように「就職できない」と言うことは引きこもりの必要条件であるかもしれないが十分条件ではない。就職できない若者すべてが引きこもりになるわけではないからだ。親の不用意な発言がなければニートになっても対人恐怖にはならないだろうから…。何気なく口にするのであろう、『昼間ッから外に出ないで…。ご近所にみっともないから…。』もともと親の言うことを 素直に聞く子だったから、外出できなくなり、人目を気にするようになるのだ。
若者が就職しにくくなったのは、引きこもりだけに限ったことではない。人件費が高くなり、外国人労働力に頼り、日本の若者を採用しなくなった。バブル崩壊以後、ほぼ20年続いた現象である。 就職がゼロになったわけではない。工場を海外に移転し、現地労働者を採用し、製品を海外に移出したり、国内に輸入したりして利益を上げられる企業が日本人を採用しなくなったのである。もともと日本は原材料を輸入し、製品を輸出する国である。自動車や家電や繊維製品製造業の多くが新規採用を激減させた。引きこもりの親を含めて、大部分の中高年者はこれらの製造業や少なくともそれらを含む日本産業や日本経済にささえられていきている。
私はこの若者の就労問題を引きこもりに注目しているから気がついたわけではない。いや引きこもりだけに注目していたのでは却って分からなかったであろう。若者全体をめぐる色合いを見ていて、其処にグラデュエーションがあり、その中心部にひときわ色の濃い部分があり、それが引きこもりであった。若者が就職できない(しにくい)というのは、引きこもりに限ったことではない。ご存知の通り、バブルが崩壊して約20年。この間ズーッと就職難の時代であった。就職氷河期と言われた時代もあった。
今年は景気も回復し、久しぶりに求人状況も改善している。しかし、20年間も求職が困難な時代が続いて、そこでまともに就職できなかった若者がどれほど溜まっていることか?求人倍率が1.0を超えたといっても、その年の新卒者に対する求人倍率が1.0を超えているだけである。若者全体の就職状況が改善されるはずもない。先日も以前引きこもりだった若者が尋ねてきてくれた。彼は6~7年前に引きこもっていたが、今では全く元気になり、対人恐怖の影も微塵も見せない明るい若者である。フリーターとしてアルバイトをしているのだが、正社員になって親を安心させたくて、正社員の面接試験を受け続けていると言う。しかし、受ける会社 受ける会社次々に不採用となり、既に10社以上面接試験を落ちたという。20年間に就職できなかった若者はどうなっているのだろう。
若者をどのように処遇しているのかはその社会のありようを如実に表しているだろう。若者をとりわけ優遇する必要はないだろう。おそらくその時代の困難を引き受けさせられるのは若者なのだろう。飢餓の時代には食物を獲得する先頭に立たせられるのは若者で、戦争になれば兵隊にさせられるのも若者だ。革命の前衛になるのも若者であるに違いない。戦争や革命の是非は措くことにして若者が困難の先頭に立つことは止むを得ないのかもしれない。それは若者が未来を切り開く栄光の役割を引き受けるからだ。不況になり、若者が就職できない時代とは何だろう。仕事と言う富を大人たちが独占してしまっているのだ。若者に未来が与えられない。未来の希望が見えない時代である。その時代の現在にとっては、若者の手を借りなくても生きていけるのであろう。しかし、20年、30年後にはどうしょうというのであろう。人々は老化してしまい、若者だった人たちは壮年を迎えるが、仕事が与えられず経験や技術がないので深刻な産業不況にならざるを得ない。
資本主義経済は生産の過剰と市場の欠乏が循環するので、残念ながら1年2年の不況や就職難の時代がめぐってこざるを得ない。しかし経済団体が非正規雇用を奨励したり、20年も若者の雇用を抑制したりするのは、資本主義そのものの自殺行為に他ならない。資本主義は自らの矛盾を修正しながら発展していくと言うが、経済発展や自らの富の獲得のために若者たちの就労を阻む日本や他国を侵略するアメリカを見ていると、そのシステムの欠陥を修正していくという宿命を自ら放棄しているように見える。地球生命の有限性を少しでも永らえさせようと言う努力とともに、社会システムの持続可能性を保っていくためには、自らの延命だけでなく、若者たちの未来を見つめていく努力が不可欠ではなかろうか?
2007.07.10.