NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第197回 「プライド vs 世間体」

By , 2007年7月2日 5:14 PM

私は時々占い師になることを楽しんでいた。引きこもりの親たちが訪ねてきて、面談を求める。すると私は引きこもりの若者の性格や行動を聞く前に、『あなたがたのお子さんは真面目で、素直でした。しかし頑固なところがあり、今では親の言うことを聞きません』と述べた。親たちは『どうして分かるのですか?』と不思議がった。何年か引きこもりの相談を引き受けていると、こうしたことが引きこもりの若者の共通項であることが分かってきただけだ。今ではこうした知見はホームページでも公開しており、誰もが知っているので占い師のような得意顔をすることは出来ない。事前にホームページをご覧になる親たちはご存知のことであるし、既に公知の事実となり、引きこもり問題を扱う関係者なら誰でも知っている。

『あなたがたのお子さんは真面目で、素直です。しかし頑固なところがあり、今では親の言うことを聞きません』このことは今でも真実で、たいていの親御さんは同意されます。しかし続けて私が『しかもプライドが高く』と申し上げると、少し首をかしげて、納得されていないポーズを示されます。いくら占い師である私のご託宣だと言っても、思い当たる節のないことには、首を振っていただいて構わないのであるが、私としては少し不本意な点もある。案の定、面談後、入寮されることになり、本人にお会いしたら、プライドの塊のような人であったりする。本人は私の言うようにプライドの高い人なのだが親はご存知ない。親が知らないと言うのは子どものことにそれほど無関心なのだろうか。いや本当に知らないのである。知らないと言うよりも子どもがプライドが高いと言う現場に遭遇したことがないというのが本当かも知れない。

プライドというものはいつもむき出しの姿のままで生きているわけではない。何か内心誇りに思っていることを褒められたりするとプライドをくすぐられると言うことになる。また同じことを侮られたり、バカにされたりするとプライドが傷つく。つまりプライドが高く見える人とは、いつもプライドを傷つけられている人だと言える。子どものことに余りに過干渉でいると、子どものプライドが傷つくことを恐れて事前に防波堤になったり、防風林になったりする。結果的に子どもはプライドを傷つけられることもなく、穏やかで中庸な人格に見えてしまう。親の中には、子どものプライドと親本人の世間体と言うものが一体になってしまって区別の付かない人がいる。例えば進学高校の受験に失敗した人がいるとする。もちろん本人のプライドも傷ついているのだが、それ以前に親が世間体を気にして、我が子が受験したと言う事実自体をひた隠しに隠す。幸い、これで進学校失敗は他人に知られず、本人のプライドも外見上は傷つかない。しかし他人に知られていない秘密を持つと言うことは思った以上のプレッシャーを本人に与える。まして他人に知られていない秘密と言っても、一緒に受験したA君やB君は知っている。担任の先生も知っている。もちろん親も知っている。彼らの誰かがその気になりさえすれば秘密はいつばらされてもおかしくない。進学校である私立に合格しなかったことは大した恥ではないが、それを秘密にしていてばらされたりするのは大変恥ずかしい。プライドの高さとはこの恥ずかしがる程度のことを言うのかもしれない。もちろん親は、我が子の秘密を守ったのであるから我が子のプライドが高いのか低いのかを知らない。 このようにいつも我が子のプライドが傷つけられる前に自分の世間体の防風林を張り巡らせてしまう親は、案外、我が子のプライドに気がつかないものであるらしい。

プライドの問題だけではなく、親の世間体と言う価値観は、引きこもりの若者の行為にどれほどの影響を与えているだろうか?引きこもりの若者の多くは『視線恐怖』と言う感覚を持っている。これは神経症の一種で『他人から(蔑みの)眼で見られているのではないか?』と言う恐怖感である。もちろん、先天的なものでも不治の病でもない。一時的な神経の衰弱による神経症なのだ。引きこもりとは、この他人の視線を避けようと思って、家から外出しなくなる行為であるから『視線恐怖』とは引きこもりそのものであると言っても良い。

不登校になったり、学校を中退して外出しなくなることがある。しかしこれだけでは『視線恐怖』でもないし、もちろん引きこもりでもない。しばらくすると、家に閉じこもっているのが退屈になる。ふらふらと戸外に出るのだがその時『昼間っから、外をうろうろしないで…。』とけん制する人がいる。ご両親だ。本来なら学校に行っているはずの年齢で、あるいは学校を卒業して就職しているはずの年齢の人が日曜日でもない平日の昼間にうろうろしているのはおかしいと言うのだ。なるほど言われてみればその通りだ。若者はその時はじめてご近所の眼というものを意識した。ご両親に言わせれば、学校を中退して20歳も過ぎたのに就職もしていない。家でごろごろしている。それは我慢できるとして、昼間っから家の近所でうろうろするのだけは止めて欲しいという。世間体が悪いと言うのだ。

学校を中退したり、就職しないという『事実』は我慢できるが、ご近所で噂になるような世間体をはばかるようなことは許せない。これでは事実上我が子に引きこもりになれと強制しているのと同じだ。不登校になることはざらにあるし、学校を出ても就職出来ないことはある。私が主張しているようにバブル崩壊以後、日本の企業はほとんど若者を採用してこなかった。正社員を採用せず、低賃金の臨時雇用やフリーターばかりを採用し、人件費を減らして企業の利益を守ってきたのが実情だ。だから私は引きこもりになるのは本人の責任でもないし親の責任でもない。若者が未来の夢を持てなくしてしまった社会の責任だと言うのだ。しかし就職できないだけで引きこもりになってしまうのではない。

就職できていないと言うのは引きこもりの定義の必要条件だが十分条件ではない。視線恐怖から対人恐怖になってしまうのは、必要以上に世間体を憚(はばか)る親の一言からだ。いつも世間体を気にする親の社会観は子どもにも理解できている。世間様に顔向けができないと言う感覚は子どもにも理解できる。プライドを傷つけられたくない子どもにとっても、他人の視線は出来れば避けたい。そこであっという間に世間体を気遣うという親と子の共通認識が出来上がる。 親にしても決して深い理由でいった言葉ではないのだが、ご近所に『みっともない』という言葉は若い人の心を抉(えぐ)る。

引きこもりの親に会うと、自分たちの育て方が悪かったのではないかと言う自責の念を持つ人は意外に多い。そのくせ、進学や就職に向けて子どもの意思を無視して何かを押し付けたのではないかと言うと、むきになって否定する。何でも本人の意志を尊重してきたと言う。世間体と言うものについても『私たちはそんなものを気にせず、おおらかに子どもを育ててきた』と言う。世間体というものは、いつもいつも気にかけているものではなく、ふとしたときに口を付いて出てきてしまう言葉、そんなものではないか?

2007.07.02.

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