NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第185回  「会社」

By , 2007年2月23日 4:45 PM

この『直言曲言』は第1回以来ずっと引きこもりについて書いてきた。私の最大の関心事とはいえ、基本的には他人事であり、当事者でもない私が、少し離れた立場から偉そうなことばかり言ってきたような気がする。そもそも私は、引きこもりは社会の有様の変化に影響を受けたものであり、その社会を作ってきた前の世代、つまり私たちこそ加害者であると思っている。

『引きこもりは病気ではない』と言ってきた。『精神病』ではないという意味である。しかし現代社会のストレスの影響を受けた『病的』な状態であることには変わりがない。私自身長い間会社生活を送り、その中で『病的』な精神状態に陥る人を多く見てきた。『登校拒否』というのが問題になるが、私の社長時代にも『帰宅拒否』といえる社員がいた。ある社員は真面目でいつも残業ばかりしていたが、ある日から会社に簡易折りたたみベッドのようなものを持ち込み寝泊りし、自宅に帰らなくなった。家庭もあり子どももいる普通のお父さんだった。能力的にはかなり劣る社員だったかもしれない。難しい仕事を背負わされ、残業に終われて、家に帰れなくなったかもしれない。 他の社員に比べて、残業時間がずば抜けて多いため、時間当たりの生産性が低く、会社としてはあまり良い社員とは言えなかった。

『帰宅拒否』 などは『序の口』で思い返せば、相当ひどい病状の社員もいた。私の会社がかなりひどかったのだろう。Mは京都大学で私の一年先輩だった。 私と同様に大阪のスラムの出身であり、私と親しかった。京都大学には全国から選りすぐりの秀才が集まっていたがMは奇抜な発想法とコテコテの大阪弁で並み居る秀才を煙に巻いていた。私はそんな先輩であるMが大好きで子分のように付きまとっていた。しかし大学卒業後のMは冴えなかった。しばしば会社を休んだ。何度も入院を繰り返した。 神経性と思える下痢が続いたかと思うと、大腸からの出血が続いた。胃腸科の病院でも原因は分からなかった。原因が分からないままに患部である大腸を切り取るのだが、仕事に戻るとまた出血を繰り返した。大腸を切り取ること数回、原因不明のまま退社し、転地療法のためカナダに移住した。別にカナダに名医がいると聞いたわけではなかったが、カナダに行って間もなく『奇病』は治った。『仕事』が激しいストレスを伴い、彼の病気の原因だったとしか考えられない。Mとは後に千葉にあるニュースタート事務局の職員として代表理事である二神の片腕として活躍した男であり、一昨年白血病のため死亡した。

私は35歳のときに3つ目の株式会社を設立している。その時に創立メンバーであった男がいる。この男もMというので、先ほどの先輩MをMo、この男をMiと呼ぼう。Miは非常に優秀な男であった。私が設立したのはシンクタンクという業種で直訳すると『考える戦車』ということになる。『頭脳集団』とも訳され、自称するには面映い業種であった。シンクタンクとは何をしていたのか。私はひとつの事柄に『別解』を考えるのが仕事だったと思っている。数学でもそうだがひとつの問題の解法はひとつとは限らない。企業はある解法を使って問題を解決している。シンクタンクには別の解法を求めてくる。その解法を使った方がもっと利益が出る場合、シンクタンクには対価が支払われる。 随分難しそうな仕事に聞こえるだろうが、たいていの場合は『こうしたらどうなる』という仮説が設定されているので、実際にはその方式に沿って問題を解くだけだ。といっても大企業や一流企業が外注してくるのだから簡単な仕事ではない。調査や研究、推論が主な仕事だが営業担当の場合、外注先から相談されて『仮説』そのものを考えなければならない。Miはその営業担当だった。この男も、先ほどのMoと同じように定期的に神経性の下痢に襲われるようになった。汚い話だが直腸から下血しズボンを汚してしまうようだった。会社も休みがちで出勤を当てにすることは出来なかった。独身で持てる男であったがこんな身体の状態で結婚は出来なかった。私と同年齢だが今でも独身で遊び人のような人生を送っているはずだ。

私がこの会社を設立した1980年は大量消費時代が曲がり角に来ている時代だった。多品種少量生産時代になりモノが売れなくなっている時代であった。マーケティング戦略で消費者の嗜好を探るのが最初の仕事だった。そのうちバブルで土地や株価が上がるようになり、私たちの会社もバブルに巻き込まれた。最初にバブル関連の仕事をしたときは驚きだった。ある医者が所有する土地の利用法について相談して来た。200坪ほどの土地だが、そこにビルを建てたいと考え、銀行に融資を申し込んだらしい。どんなビルを建てるのかのプランもなかったらしく、融資は断られたそうでそのことについての相談だった。不動産についての知識もなかったがマーケティングについての常識のつもりで、簡単な立地調査をして近隣の業種なども調べ、こんな調査をしてはどうかとの提案を送った。ところが数日後いきなり300万円が送られてきて礼を言われた。 企画書のつもりで提案をしたのだが、その企画書を銀行に見せたところ、それで融資が実行されたというのだ。10数億の融資が簡単に実行されたのだから300万円の謝礼は高くなかったのだろう。

京都大学の後輩であるTは、大手電機メーカーに勤めていたが退職して私の会社に就職した。最初はシンクタンクという仕事が分からないらしくて戸惑っていて、私の口真似ばかりをしていた。 私の言ったことを得意先でそのまま真似をするので滑稽ですらあった。 そのうち私の思考法や論理構造を体得したらしくトップクラスの研究員になり、ついに副社長になった。大変優秀で得意先からの信頼も厚くわが社の稼ぎ頭になった。だがそれだけ仕事をする裏には苦労も多いらしく、やがてうつ病になった。うつ病というのは精神科医の診断で、私には分からなかったが、仕事で神経を過剰に使いある種の神経症になっているのは確かであった。仕事は優秀だが欠勤が多かった。まともに出勤することは少なく、欠勤の方が多かった。それでも得意先との約束があるときには、無理をして出てくるようで、そんな時気分転換に酒を飲むらしく、深酒がたたって肝臓を悪くした。私の会社では優秀な社員ほど持病を持っていて欠勤が多かった。 社長である私はもちろん先頭に立って仕事をしたが酒飲みであり、毎日夕方になると居酒屋に入り浸っていた。仕事のストレスは決して持ち越さない主義であり、他の友人や後輩のようにうつ病や神経症にはならなかった。バブル経済全盛期であり、シンクタンクなどと名乗っていたが『開発利益の先取りのおすそ分け』 にすがっていると自嘲的に話していた私は酒を飲まずに仕事をすることは出来なかった。

Tは仕事と鬱病と肝硬変のトライアングルの中で、命をすり減らしていった。Tは9年前、肝硬変でこの世を去った。葬式に参列した共通の友人だった精神科医の野田正彰氏は『これはある種の自殺だな』とつぶやいた。私は社員に緩慢な自殺を強いてきたような会社をひどく嫌悪した。多くの人は、死に至る病だとも知らず過労死への道を歩み続けていた。どんなに人道的な経営をしているつもりでも、株式会社がこの社会で生き延びていこうとすることは非人間的な試みなのだ。決して社員の待遇や勤務条件の問題だけではないと私は思った。

2007.02.23.

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