直言曲言 第173回 「昭和20年代」
私はこの『直言曲言』と題する連載エッセーでは『社会的引きこもり』に関するテーマについて書き続けてきた。ニュースタート事務局関西のホームページが始まってから月に3本のペースで5年半、170本以上も毎回何らかの教訓を述べてきたことになる。別にネタがなくなってきたからではないが、教訓をたれるのに飽きが来た。しばらく別のことを書いてみたい。
昭和20年代のことを書きたくなった 。昭和20年といえば太平洋戦争が終わった年。若い人から見ればはるか遠い昔である。私にも経験があるが、大人はすぐに昔話をして、すぐにそれにまつわる教訓を述べたがる。私たちの頃はそれは戦争の話であった。私は昭和19年まれであるが、もちろん戦争の記憶など無い。昭和25年頃といえば私が6歳になるかならない頃の話。大人たちにとっては、戦争の惨状から抜け出したのはついこの前のことであり、昔話をするのも当たり前かもしれない。たいていは食べ物に苦労したとかの話であり、私が好き嫌いをいったり贅沢を言ったときに出る教訓の話であった。『またその話か』とうんざりしたものである。しかし戦後の話といって今ではももう60年近く昔の話。その頃から60年前といえば日清戦争や日露戦争も飛び越えて明治憲法が発布される前の維新直後の話である。そのくらい昔の話になれば、若い人に聞かせてみるのもあながち無駄なことでもあるまい。そう思ったのである。
昭和25年(1950年)春ごろ、私は大分県別府市鉄輪(かんなわ)から兵庫県西宮市鳴尾(なるお)に引っ越してきた。5歳だった。鉄輪にすんでいた頃から記憶はあったのだが、断片的で、連続的な記憶があるのは5歳になってからである。鉄輪は別府温泉のはずれであり、今では温泉地や地獄めぐりの中心地であるが、当時は温泉のある田舎といった風情で、観光客もほとんど無く、のんびりとした田園地帯であった。鳴尾というのは阪神沿線の町で、有名な甲子園のひとつ大阪寄りの駅の近くである。昭和25年は西宮市に編入される前で、兵庫県武庫郡大字鳴尾字上鳴尾といった。
現在の鳴尾周辺はマンションが立ち並び、武庫川女学院の瀟洒な建物が聳え、 空き地や農地も無い住宅密集地である。当時は阪神高速道路神戸線や国道43号線も未開通で畑の広がる田園地帯であった。鳴尾苺(イチゴ)といわれており、イチゴの産地であり、季節にはザルをもって買いに行くと50円ほど(当時50円硬貨はなかったが50円紙幣はあった。)で山盛りに積んでくれたものである。昭和20年代は言うまでもなく戦後間もない時代。しかし、昭和25年頃になると戦後の食糧難も癒えてきて、朝鮮戦争の特需から本格的な復興に向かう頃である。といっても、昭和26年にサンフランシスコ講和条約が締結されて日本が独立国になる前であるから、米軍による占領下にあり、あちこちに進駐軍という名の米軍キャンプがあり、鳴尾の近くにも浜甲子園などに駐屯地があった。食糧難から解放されつつあったとは言うものの現在のような贅沢品などは日常的に手に入るわけは無く、たまに米軍のPX(購買ショップ)などから横流しされた米軍の携行食糧(野戦用のお弁当のようなもの)を手に入れると珍しいものばっかりであった。ビスケット・バター・チーズなどの他にリグレーのチゥインガムやハーシーのチョコレートなどもちろん初めて目にするようなおやつが入っていた。当時父親が浜甲子園であるかどこか他のPXであるか知らないが、やはり横流しらしいブドウ糖の塊を手に入れてきた。ブドウ糖は誰でも知っているだろうが、現物を見たことのある人は少ないのではないか。病人がカロリー摂取が不十分なときに点滴の注入を受けたりするアレである。 ブドウ糖を蒸留水に溶かせて溶液を作るのだろうが、その頃手に入れたのは溶液にする前のブドウ糖の結晶の塊で赤ん坊の頭ほどの大きさであった。真っ白な塊で噛り付くと、歯に凍みるような甘さがあった。あの頃のブドウ糖が子どもの頃の私の虫歯の原因になったのかもしれない。
昭和20年代はまだ自動車も少なかった。国道(2号線)に行けば自動車も走っていたがトラックやオート三輪などが多く、乗用車といえばまだ外国車の方が目立っていたくらいであった。米軍キャンプが近くにあったせいかもしれないが、自動車のナンバープレートに赤い斜線が引いてある仮ナンバーの車が多かったのも覚えている。この頃の日本は朝鮮戦争特需による復興景気はあったものの、まだまだ復興途上であり、自然環境にも恵まれており、のんびりしたものであった。昭和35年頃からの所得倍増計画や、高度経済成長時代には工業化社会が大進展し、公害が蔓延し、瀬戸内海がどぶ川化したり、地球環境が危機に瀕したりしてくるのだが、昭和20年代のこの頃はまだ日本という国にも緑や空間の余裕があったのだろう。
その頃の子どもたちの遊びは小川で、アメリカ・ザリガニや台湾泥鰌を取ったりしていた。いずれも食料増産のために輸入放流されたものが田んぼから小川に逃げ出したものであろうと思われる。鳴尾周辺は都市近郊であったので、田んぼや畑に繋がる小川といえども既にコンクリートの3面舗装がなされた代物であった。私は翌昭和26年4月に鳴尾小学校に入学した。小学校は卒業していないが、私が唯一在籍した小学校である。その頃で創立80周年の話があったのであるから、明治の学制改革の頃に出来た古い小学校であった。 今の武庫川女学院のすぐ西側にあって、校門をくぐったすぐ側に二ノ宮金次郎が薪を背負いながら読書をする銅像があった。貧しさに負けないで刻苦勉励。戦争に負けた貧しさを教育で立国しようというのが国是でもあったような気がする。朝鮮戦争特需による復興契機は着実に日本を潤わせていた。その次に来る時代が、そしてその後の現在の日本がどのような国になるのかを知らないままに、淡々と時代は通り過ぎようとしていた。
個人的には私にも比較的平穏な時代であった。人並みに小学校にも通っていた。欠かさず三食も食べていた。複雑な家庭環境であったことなど分からなかった。といっても実の父や母でなかったわけではない。ただ、私には義理の姉2人と兄が1人いた。母の前の夫の子どもたちで、その人は既に故人で、父はその未亡人である母と結婚し、私たち兄妹4人をもうけていた。義理の姉たちは母親を失い、大変な苦労をしていた。父は、そんな後ろめたさもあったのかも知れない。定職も持たず、資格の無い企業相談役のような仕事を続け、ふらふらと自由業のような身分であった。戦後の混乱期が過ぎたばかりで、そんな人も多かったのかもしれない。ともかく鳴尾の後は4~5回の夜逃げを繰り返した。小学校の籍は3年生の1学期まであったが、3年間で1年ほどの通学期間であった。
昭和29年の末に、あちこち流浪した末に、大阪の釜が崎に流れ着いた。世の中は、例の朝鮮戦争特需などから経済的には本格的な復興を遂げていた。しかし我が家の経済は完全に破綻をとげ、おまけに父の身体は病魔に蝕まれ、我が家は夜逃げの連続の末についに家も失い、一家心中の淵にまで追い込まれていた。釜が崎は、世の中の景気の浮沈とは関係なく、社会のゴミタメ場のように沈みきっていた。そこは大きなゴミ捨て場のように高い壁で仕切られており、這い出そうとしても這い出せないあり地獄のような場であった。それでも私にとっては十代の青春を送った懐かしい場であった。
2006.09.12.