直言曲言 第172回 「いじめ」
『社会的引きこもり』がある種の精神病であるのか、私が主張するように『病気ではない』のかという点に関して精神医学会で明確な結論付けが行われたということは聞いていない。精神科医の中には、引きこもりの人を診断して『あなたは精神病ではない』と明確に言い渡す人もいるし、その点を曖昧にしたままとりあえず投薬を続けて、観察を続けようという精神科医もいる。そもそも、引きこもりが精神病であるかないか以前に、自分たちが扱っている精神病とは何かということがわかっていないし、そんな難しいことを議論するつもりも無い。精神病がどのように発症するのかもわかっていないし、とにかくわけのわからない病気が精神病であるという程度の定義しかなく、ある種の急性症状に対しては鎮静剤や安定剤を投与すればよく、慢性的に暴力や妄言,自傷他害の可能性のある人に対しては閉鎖病棟への拘禁で応じればよいのらしい。いずれにしても『社会的引きこもり』はある種の『状態像』であり、明確な器質的な欠損などが原因で無い限り、どこかに社会的体験などのトラウマが契機になっていると考えざるを得ない。
そんなわけで引きこもりの若者の親御さんに初めて会うとき引きこもりになったきっかけについて伺うのが習慣になっている。引きこもりの状態像は、自宅に引きこもったり、就職することが出来ず、対人恐怖や人間不信をつのらせ社会参加が出来ない状態である。しかし、生まれついての引きこもりなんてないし、器質的欠陥から引きこもりになるなんてことも無い。生育途上のどこかで引きこもりになったきっかけがあるはずである。親御さんたちの3人に1人か、4人に1人は小学校か中学時代におけるいじめを上げる人が多い。親御さんが認識しておられない場合でも、後に本人に聞くといじめがきっかけでという人が多いので、引きこもりの少なくとも30%くらいは、いじめがきっかけだと思っている人が多い。引きこもりの本質は別だとしても、そのきっかけは千差万別である。その中で最も多いのはいじめである。しかし、私はいじめが引きこもりの原因であるとは思わない。いや思いたくないというのが本音かもしれない。
いじめは小学校高学年くらいから始まることが多い。引きこもりが顕在化するのは中学2~3年生くらいからである。実際に親が引きこもりについて相談に来るのは22歳くらいが1番多い。いじめが原因だといわれても、実際には10年以上前の、しかも済んでしまった出来事である。済んでしまった出来事が原因だと言われても、いまさらどうしようもない。今もなお、しかも本人の努力で何とか克服できることがあるのではないか。10年前の小学校高学年のことにこだわられても、過去にさかのぼっていじめた友達を呼び出して、恨みを晴らしても仕方が無いだろう。本人自身の努力によって、自分を変えることによって、引きこもりを克服する道が、あるいは考え方があるはずである。そう考えたいのである。
しかし、世の中にあるいじめをかばうつもりは全く無い。いじめは全く理不尽なものである。いじめは強い子どもが弱い子どもをいじめるとも思っていない。いじめを始めるのも、本当はクラスや集団の中の弱い子どもで、何とか自分を最劣位から抜け出させようとして、自分がいじめうる対象を探す。背の高さでも良い。試験の成績でも良い。家庭の貧しさでも良い。運動におけるのろまさ加減でも良い。何でも良いから、対象の子が自分より劣っている点を見つけ出して囃し立てるのである。すると同じようにあまり強くは無い子どもたちが、自分のポジションを確認しながら、尻馬にのっていじめに加わる。いじめなど、最初に加えられた不当な攻撃に対し有効な反撃を加えてしまえば、消えてなくなるものだが、いじめられた子が弱気になったり、あるいは攻撃された点が真実をついていたり、本人が気にしていたりすると、まんまと成功してしまうのである。この点この年頃の子どもたちは残虐なものであり、いじめが正義に反するとか、卑劣な行為であるとかは考えずにあっという間にクラスに蔓延してしまう。いじめを受ける方が、不当であると思うのは当然であるが、だからといっていじめは簡単にはなくならない。親や先生や親しい友人に訴えてもムダである。周りの人がそれほど深刻に考えているはずが無い。
昔実際にあった話だが『葬式ごっこ』というのがはやり、生きている人が死んでしまったことにして葬式をするのである。葬式自体は大真面目に行なわれるのだが状況設定としては本人が死んだことになっているのだから徹底的に無視されることになる。つまり仲間はずれになる。クラスをあげてのイベントになり大規模なイベントになる。やっている本人たちにすれば、イジメという意識は無く、おもしろい遊びのつもりである。このとき悲惨だったのは馬鹿な教師までもが葬式ごっこに参加してしまったのである。いじめられた方にすれば、いじめの不当性を訴えて、助力を頼みたい先生がいじめに参加しているのであるからお手上げである。
こんないじめもあった。ミツオ君とかミチコさんなど名前に『み』がつく人ならだれでもよい。
みっちゃん 道々 うんこたれて
紙が無いので 手で拭いて
もったいないので たべちゃった
こんな歌をよってたかって歌うように囃すのである。他愛も無い、しかしいじめられた本人にとっては名指しでやられるのであるから、知らん顔もしていられない深刻ないじめなのである。うんこたれて以後は根拠も何も無い単なる憎まれ口に過ぎない。いじめる側にしてもみっちやんに対して特に恨みがあったわけではなく、流行の遊びのひとつに過ぎなかっただろう。こんなもの誰かに訴え出たって相手にされない。
しかし、いじめは時に深刻な結果を招く。先の『葬式ごっこ』にしても、世間に知られるようになったのは、お葬式をやられた子が耐え切れなくて自殺してしまったからだ。いじめそのものは他愛の無い日常的な出来事に過ぎないが、やられた子が『被害者』として意識してしまうと出口がなくなってしまう。かつて軍隊の中でも古参兵が初年兵に対していじめを行なったという。いじめは競争社会や閉鎖社会の産物である。いじめられた方も、その競争社会や閉鎖社会の中で救いを求めてしまう。もしいじめられたら、閉鎖社会を突き破って地球の果てまでも逃げてやれば相手も追いかけてこない。うそだと思うならそこから100メートルでも逃げてごらん。もう追いかけてこないから。
2006.09.05.