NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第161回 「社会規制」

By , 2006年5月31日 1:39 PM

精神科医のお話を伺っていると納得のいかないことが多い。私があらたまって聞くから、答えにくいのだと思うが『あなたが正常人と精神異常者を区別する基準は何ですか?』と素直に聞くと、決まって『答え』に詰まってしまわれる。『それでは、なぜ精神異常者を治療したり、隔離したりされようとするのですか?』と聞くと、こちらはやや確信に満ちた態度で『社会防衛の為です』とおっしゃる。

私はこの『社会防衛』と言うことばを聞くと<カチン>と来てしまう。何から何を防衛しようと言うのだろう。多くの精神科医が思う『社会防衛』とは、実際には分かるのである。例えば、あなたが精神病者であろうと無かろうと、深夜に突然奇声を上げるとする。家族や近所の人は迷惑を受ける。家族は驚いて理由を問いただすだろう。それにはまともに応えずに、適当に誤魔化しておく。このことを2~3回繰り返したら、あなたは確実に精神病院の隔離病棟に入れられる。

つまり、市民の静謐な生活を脅かす人は、隔離して社会を防衛しなければならない、というわけである。この場合は、深夜奇声を発し市民の安眠を妨害すると言うわけだから、分かりやすいのだが、精神病者と判断されるのはこんなに明確な基準があるわけではない。世間の基準で言う健全な社会人にあるまじき行為を続けると、異端者、つまり精神病者であることを疑われるのである。引きこもりの一般的な状態である『成人になっていても仕事に就かず家に閉じこもっている』と言うのは精神病者の資格十分というわけである。とにかく自分達の判断基準に照らして奇行と映る行為は、すべて精神病を疑う。それが精神科医や一般人の習性であるらしい。

先ごろ、ふと昼過ぎのテレビを見ていて嫌な人にお目にかかった。青少年の健全育成に関する話題で、ある県の条例で、警察による青少年補導を強化するという新法を協議中らしい。その人は、フリースクールの関係者らしく、この新法に反対だと言う。新法によると、小・中学校の授業時間中に町中を彷徨する該当年齢の児童・生徒がいれば補導するらしい。このフリースクール関係者は『学校の授業時間中でも、フリースクールに通う子どもは町中を歩いている。それを補導しようとするのはけしからん』という論法らしい。彼 (実際は中年のおばさんだった)の論法によれば、昼日中であれフリースクールへの通学中の人は許されるが、他の人は補導したり検挙されても仕方がないと言うのだろう。
引きこもりの初期は多くが中学2・3年生である。この頃から勉強が急に難しくなり、進学して高校や大学を目指すのかそれ以外の道を目指すのかが問われるのである。世の親達は、我が子の適性など考えずに殆どが高校進学・大学受験を期待する。

子どもにすれば否応なく将来のことを考えざるを得ない。この歳になれば世間の大人がどのような職業につきどのような暮らしぶりをしているかは分かる。もちろん自分は良い職業について多くの収入を得たいと考える。そのためには『良い大学』をめざすべきである。受験勉強を意識するのであるが、受験競争が友達間の友情にひびを入れさせ無味乾燥な学校生活にしてしまうことも知っている。それに、それまでして大学に進んでも望むような就職口がなくフリーターに甘んじる若者が激増していることも知らざるを得ない。絶望的気分になる。

『若年性厭世観』と言ってよいだろう。こうして『不登校児』が多発する。 『不登校』の若者が引きこもりや、『対人恐怖』に陥る契機をご存知だろうか?『不登校』になった若者は『外出』を避けるようになる。初めは『学校』に行かないだけで近所をぶらぶらしたりしているのだが、最初に紹介した法案のように学校の授業時間中にぶらぶらしている該当年齢の児童・生徒がいると世間がうるさい。場合によってはこの法案のように警察官が不審尋問をしたり、補導されることがあるかもしれない。だから不登校生は、平日の日中はできるだけ外出しない。外出するとすれば、休日や夜間だけである。かくて『昼夜逆転』の第一の理由がうまれる。
平日の昼に外出しないことが習慣化すれば当然のごとく、他人との距離が広まり、やがて人間嫌いや対人恐怖に陥る。このようにして、世の親が不思議がる不登校から引きこもりへの変化が完成する。  私は平日に学校に行かないことや家に閉じこもることを奨励しているわけではない。昔なら幼くても働いている子どももいたし、親の手伝いをさせられる子もいた。しかし今は大抵の大人はサラリーマンで、平日家にいる子どもにかまっている暇は無い。子どもとしては分からないことを、親にも身近な他人にも尋ねることが出来ないから、黙って家にいるしかない。不登校になると子どもはすぐに孤立してしまい、異端者としての注目を浴びる。今の子どもには選択の余地が少ないのだ。
学校を休んで、平日の昼間に町にいることなど『ざら』なことである。いちいち『不審尋問』されたり補導されたりすればたまったものではない。社会が『安定』するのは良いことである。しかし社会が安定してくると、往々にして、人々に対して『同一性』を求める。同一のものに対しては『寛容』であるが、違う行動をする人に対しては『異端視』する。『いじめ』もクラスで徒党を組むグループに対して、同一歩調をとらない人に対する異端視から始まる。私は精神病者に対する隔離政策も『いじめ』の一種と考える。社会的な異端者を警察力によって取り締まるとなると、これは社会的ないじめの一種である。
私は、世間が人々に対して同一性を求める世の中に嫌悪感を感じる。元来、人は一人ずつ違う個性を持って生まれてくる。人によって『幸せだ』と思う感覚も違うはずだ。しかし、国や集団がより大きな成長を求めるとしたら、皆が同一の価値観を持っているほうが便利だ。陳腐なこというようだが、戦争をやるようになると軍部は国民に対して戦争遂行のための『同一性』を求めるようになる。

その時同一性に従わない異端者は『非国民』と罵られ、時には拘束されたり、追放されたり、死刑になることもある。引きこもりを例に挙げたたとえ話に【死刑】だなどと大げさに思われるかもしれないが、人々のすることには連続性がある。日々の何気ない出来事の連続線の上に何がおきるかも分からない。『太平洋戦争』も『ベトナム戦争』も日常の何気ない出来事の上に起きたことである。あなた一人が『異端視』されたり、『いじめ』られたりすると言う『個人的』な出来事ではないのだ。納得できない出来事や、兆候にははっきりと<NO>というべきである。引きこもりとは  良くある出来事に対する当たり前の反応のひとつであり、決して異端者の反応ではない。

2006.05.31.

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