直言曲言 第179回 「第二次仮説」
私の自信作のひとつに『引きこもり構造図』がある。もともとはA3横版の大きな紙に、引きこもりの特徴や私なりに考える解決法を描いたが、今ではA4版に縮小し、個別面談をした人に必ず渡し、引きこもりの説明などに用いている。ニュースタート事務局関西を始めた頃、最初の講演会には約80名の人が参加し、その後も新聞やテレビで取り上げられるたびに100名を越える父母たちが参加した。毎回全員の話を聞くことは出来なかったが、例会の会場で質問を受けたり、例会後の会場でお父さんやお母さんたちに取り囲まれ、質問を受けたりした。だから半年もしないうちに100名以上の引きこもり症例に触れることになった。
最初のうちは『引きこもりは千差万別、十人十色』と聞いていたので、そのつもりで対応していたのだが、100人以上の事例に触れたとき、その『性格』や『いきさつ』があまりにも似通っていることに気づいた。個別面談を始めてその類似性について話し始めた。引きこもりになるのだから陰性で親の言うことを聞かないのだから物分りが悪く、素直ではない若者を想像していた。ところが、話を聞いていくほどに、引きこもりになる子の特徴として『真面目、素直、優しい』などがあることが分かった。これでは良いことずくめなので親が頷いても信用できない。『頑固、勝ち負けにこだわる、プライドが高い』など、必ずしも若者の属性としてほめられないようなことも付け加えることにした。これらはどれも当たっているらしい。面談に来られる親御さんは誰も皆、うなづかれる。中には『なぜ分かるのですか?』とまるでこちらに透視能力があるかのように驚かれる方もいらっしゃる。すっかり自信をつけた私はやがてこの引きこもり構造図を面談に来られる親御さんすべてにお渡しするようになった。その後約9年間を経て、引きこもり構造図にも何回かの改定を加えた。しかし基本的な部分は初版から変わらない。その後何百という引きこもりの若者やその親御さんとお目にかかったが例外は見つからなかった。社会的引きこもりが個人の病気などではなく、社会のひずみの反映だと私が断定する理由もそこにある。社会的な共通原因があるからこそ、共通の様相を呈しているのだ。
しかし最近になってやや例外と思える事例が増えてきた。それは『社会的引きこもり』に限定していた対象者の中に統合失調症と病院で認定された患者や各種の発達障害と思われる人が混じるようになってきたからだ。彼らには『素直』とか『真面目』とかでは割り切れない対人関係の素振りがある。もうひとつ私が認識を改めなければならない事実がある。私は当初、引きこもりになる人は『頭の良い人』や『成績の良い子に多い』と言っていた。事実、当初は有名進学高校の中退者や一流大学の中退者などに相談者が多かった。だから受験教育の被害者とばかりに思い込んでいた節がある。ところがその後そうとは限らないことが分かった。引きこもりの若者を集めた読書会などを開いて見ると、中学程度で知っているはずの漢字が読めない子がかなりいる。これは私の次のような解釈で理解することにした。引きこもりは14~15歳で発症する人が多い。反抗期や思春期を迎える年齢である。しかし実際に引きこもるのは、環境によって同年齢から25歳くらいまでと幅がある。高校や大学の受験期を無事に乗り切った人は、それなりの学力や判断力を身に付けているが、早期に引きこもり気分に襲われた人は、そこで挫折してしまい、中学で不登校や退学に追い込まれてしまう。中学生くらいで当然身に着けているはずの教養すら未学習なのである。自分の学力が低いということにも無自覚である。この子達も本質は真面目であるので学習意欲は低くない。数年後にそのことに気づけば十分に学力を取り戻すことができる。
ところでその『真面目、素直、優しい』ということであるが、私が100人ほどの引きこもりの人にあった段階での仮説である。『演繹法(えんえきほう)と帰納法』という言葉は大学で論理学の講義を受けたことのある人なら記憶しておられるだろう。大学などに行かなくても言葉だけは理解しておられる方も多いかもしれない。ある論理の証明のためには演繹法や帰納法が用いられることが多いが、演繹法では一般的な前提を用いて論理的な前提を証明していく方法で、三段論法などもそのひとつと数えられている。AはBである。 またBはCである。従ってAはCである。という例の方法である。帰納法は『最初に結論ありき』とされるような論法で、現象間に存在する因果関係の立証によって最初の結論(仮説)の正しさを立証していく。CはAになりやすい。なぜならCの多くはBになりやすい。またBの多くはAになりやすい。だからである。
ここでは『真面目、素直、優しい』などの性格を持った若者が引きこもりになり易いとする仮説があり、100人ほどの引きこもりに面談したが例外は認められなかったとして因果関係から仮説の正しさを立証しようとしているが、『真面目、素直、優しい』というのは人の属性であり、例外がないという判断も所詮は私自身の主観的判断や親御さんの思い込みによるものである。科学的実験のように明確な立証結果が得られたわけではない。何となく論理的な欲求不満が残るのである。そこでより多くの新しい仮説を立てて、その正しさを確認してみようという気になるのである。
これ自体が仮説であるともいえるが『引きこもりは社会や家庭の歪み(ゆがみ、ひずみ)』が原因である。『真面目、素直、優しい』などは通常『良い子』とされる子の徳目である。そこで、私の第二次仮説は『良い子ほど社会や家庭のゆがみ、ひずみの影響を受けやすい』というものである。素直であれば、外界の良い影響も、悪い影響も受けやすい。どうやらこの仮説は立証しやすいのではなかろうか。しかし、例会や面談を行うという私の日常生活の中で、これをどうして立証すればよいのだろうか。私にはまだ分からない。それに面談をした親御さんが『あなたの家庭にはゆがみやひずみがありますか?』というような質問に答えてくれるだろうか。親御さんが死別したり、離婚したりした家庭には何らかのひずみがあるといえるが、果たしてそんな事例が立証するほど多くあるだろうか。
それに私にはもうひとつ憂鬱な事態が予測されるのである。それは不良少年のことである。不良とは、通例親の言うことを聞かず、市民社会のルールを破って未成年なのにタバコを吸ったり、酒を飲んだり、SEXをしたりする少年のことである。一般に社会や家庭のひずみ、ゆがみが不良少年を生み出すといわれている。
『良い子ほど社会や家庭のゆがみ、ひずみの影響を受けやすい』ということが立証されれば、例の三段論法によって『良い子』=『不良』ということになりはしないか?実は私は『不良』と呼ばれている子は、本当は真面目で、素直で、優しい子だと考えている。真面目で、素直で、優しい子だからこそ、社会や家庭の不正や欺瞞に耐えられなくなってその枠を飛び出して、ルールを破ってしまうのではなかろうか。社会や家庭のひずみ、ゆがみに目を瞑って、不良少年を非難するのは、不当に引きこもりの若者を非難するのと同じく許されないことだと思っている。しかし『良い子』=『不良』ということになってしまえば良=不良になってしまう。まさに良いことも悪いことも区別がつかないということなのだろうか。
2006.12.7.