NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第174回 「昭和30年代前半」

By , 2006年9月25日 3:18 PM

『もはや戦後ではない』(昭和31年)は『経済白書』の有名なスローガンであるとともに、戦後の大きな転換点でもあった。昭和20年代は敗戦後の復興や朝鮮戦争特需があったとはいえ敗戦の大きな痛手から立ち直る耐乏の時代であった。「米よこせ騒動」や「血のメーデー」など政治的な民主化要求も激しかった。昭和30年になって神武景気といわれる好景気がやって来た。『もはや戦後ではない』には戦後を乗り切ったという驕りが感じられる。政治的要求を経済的関心で置き換えようという作意も感じられる。戦後の混乱や耐乏から経済や消費への関心に振り向け、30年代後半の高度経済成長に向けての為政者側の意欲も感じられる。それが良いことか悪いことかは、ひとまず措くとしてもこれが転換点となって、戦後の日本が大きく変わってきたと思う。経済発展そのものは良いが、消費を美徳とし、生産をあおり、大量生産・大量消費を煽り立てた。これが昭和30年代後半から40年代前半の公害の全盛期につながり、ひいては現在の地球環境危機といわれる時代につながっている。

私自身は昭和28年を最後に西宮市鳴尾を離れ、遠い親戚の家などを居候と夜逃げを繰り返し、大阪駅や天王寺公園などの野宿生活も経て、昭和29年の冬に釜ケ崎にたどり着いていた。夏や秋のうちは野宿にも耐えられるが、11月にもなると夜風が身に凍みて木賃宿にでも泊まらなければいられない。その生活も続けられなくなった頃、『釜ケ崎に行けばもっと楽に暮らせる』という情報が耳に入ったのである。ご存知の方も多いだろうが釜ケ崎といえば当時日本最大のスラム、つまり貧民街であった。『スラム街』というのは資本主義的な大都市の発展過程の中で必然的に生み出される吹き溜まりのようなもの、つまりはゴミ捨て場のような一角である。大都市を建設するには道路や鉄道やビルが整備されていくが、当時はコンクリートミキサーもパワーショベルもクレーン車もない時代あるいは普及していない時代であるから、都市建設には膨大な労働力が必要であった。つまりは重い荷物を運んだりするのにはすべて人力が必要であった。重労働に限らず、非熟練労働に関しては、機械化の時代とは言え、そうした労働力が多数必要であり、釜ケ崎がその供給源であった。経済復興の中で人々の生活は向上しているが、資本主義がその構造上、スラム街の存在を必要としている以上、ある意味で釜ケ崎は肥大化し人びとを呑み込んでいった。普通に生活をしている人でも、病気をしたり事故にあったり、職場や家を失うことがあり、離婚をしたり犯罪を犯したりすることも市民社会からドロップアウトする危険性が一杯であった。そうした人びとは、戸籍も住民表も履歴書もなく、そうした人びとでも生きていけるのが釜ケ崎であった。ちょうど、今の時代に引きこもって履歴書も書けず、就職する機会を失ってしまうことにも通じていた。

私が釜ケ崎にやって来てはじめに感じたのはやはりその汚さであった。私が釜ケ崎で初めて住んだのは六畳一間のアパートであった。アパートとは言うものの家賃は日払いで400円。月額なら結構な金額になるのだが、まとめた月額家賃や保証金などを支払う能力のない人々には、割高なそんな家賃の住まいが逃げ場所であった。同じ経営者の持ち物になるアパートには、さらに劣悪な場所も会った。通路を通り抜けた奥に便所があり、そこは小便所から染み出した小便の悪臭が立ち上り、汲み取り式の大便所の扉も閉まらない、近づきたくないような場所であった。その近くに共同水道があり、その奥に戦時中の防空壕を改造した穴蔵のような真っ暗な通路があった。通路の左右は扉もないねぐらがあり、そこは三畳程度の広さで一泊が200円であった。最初の印象は『汚い』に尽きたが、自分自身がその住人になると、次第に汚さにも慣れて、その便所や水道も常用するようになった。

世間では釜ケ崎の住民はだらしのない働く意欲のない人々といわれており、そこの住民となった私も世間から差別され蔑まれる人種になったのである。下層の住民や貧しい人々は何時の時代にでもおり、それを社会的に包摂していくのか、排除していくのかは政治の姿勢次第である。釜ケ崎はいまも変わらないが、せいぜい600メートル四方程度の地域である。西は南海本線、北は国道25号線などに囲まれている。そこから先は普通の市民社会が広がっているのだが、その境界には見えない『壁』が立ちふさがっているように感じた。私は結局、大学に進学するまでの10年間、釜ケ崎から脱出できなかったのだが、『壁』をこえられなかったのである。

昭和36年に『釜ケ崎暴動』という事件があり、スラムは『怖いところ』という認識が広まった。行政も『スラム解消』という課題を掲げた。釜ケ崎がなくなれば私も市民社会に復帰できるのにと思ったが釜ケ崎はなくならなかった。釜ケ崎というスラムから都市は目隠しをしなければならないが、釜ケ崎の住民は『包摂』ではなく、『排除』しなければならない、と考えたのだ。ずっと後のことになるが、あの私たち浮浪者がねぐらにしたことのある天王寺公園の『有料化』や、霞町市電車庫跡地のフェスティバルゲート化(大規模遊戯施設を建設したが、その後大赤字で困っている。)は釜ケ崎と庶民の歓楽地である新世界の分断であり、そこに大きなかべを作る目的であった。

3年生まで在籍した小学校を夜逃げで離れ浮浪児となった私は、学校にも行けないまま歳を重ねていた。釜ケ崎の住民が差別されるように、学校にも言っていない子どもは、まともな職業にもつけるはずがなかったし、一生釜ケ崎の人間として暮らさなければならないのかと覚悟し始めていた。昭和33年、不就学児童一層運動というのが始まった。当時はまだ戦後の混乱期が後を引いていて、少数だが学校に行けない子どもが町に残っていた。その中で私は最年長だった。当時私は13歳。本来なら中学2年生だが、小学校に行っていない、しかも釜ケ崎の子どもだから学力がないだろうと、中学校1年生に編入されることになった。3人の弟妹たちもそれぞれの小学校学年に編入された。編入を担当した、社会化担当で、生活指導担当の教諭は身体の大きな私を見ててっきり『釜ケ崎の不良少年』と思っていたらしく、しばらくは徹底的に私をマークしていた。ところが、私のほうは、学校に行けないことによってみじめな人生を送らなければならないと覚悟していたくらいだから、学校に憧れていた。学校に餓えていたといっても良い。教わることはすべて知識として吸収していった。やがて頭角を現し、成績は学校一番となり、学校始まって以来の『秀才』ということになり、大阪市教育委員会からの表彰も受け華やかな人生の時代を迎えた 。『もはや釜ケ崎時代では』なくなった。
2006.09.25.

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