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直言曲言 第165回 「職業選択」

By , 2006年7月5日 2:37 PM

引きこもり問題は親たちが理解しにくいだけに、難解な精神科の問題だと捉えがちである。しかし実際には『職業選択』の問題である、というのが私たちニュースタート事務局関西の見解である。しかも14~15歳ころ、つまりは中学2~3年生のころ、自分の生涯について初めて考え始めたころ『職業選択』についても考えはじめ、そのことから逆算して高校進学や大学進学についても考え始める。

そのときに考えた夢が素直に実現するのであれば、それでよいのだが、実際には自分の夢以外にも親の夢や進学の失敗、選択の断念などいろいろな障害があり、人間不信などの神経症に陥る。親は子どものこうした思考回路にはほとんど無頓着で、成績の上がり下がりにだけ気を配っているのだから、引きこもりになど気づくはずがない。

私が中学を卒業したのは昭和36(1961)年である。1960年から始まる高度経済成長の翌年であるが、すでに時代は戦後復興から成長の道に向けて疾走が始まっていた。私の通っていた中学は大阪市西成区にあり、著名なスラムである釜ヶ崎を通学区域に持ち大阪で一番貧しい中学であるといわれていた。私の同級生たちは2分の1程度が「中卒」で就職した。

当時の全国的平均データは知らないが、その後進学率は急上昇し高校進学率は100%近くなり、私の進学した高校では当時の大学進学率も95%程度であった。スラム地区にある中学で、約半数近くが就職したのは仕方がなかったと思っている。少し前までは「中卒」は「金の卵」ともてはやされ中小企業復興に大いに役立った。といっても彼らがそれほど優遇されたわけではない。

わが同級生たちの就職先は、ほとんどが町工場か商店の従業員で、事業所といっても個人経営の水道工事屋さんとかガラス屋などといったところだった。著名な企業に就職したのは、私の聞いたところによると、大阪市内の有名デパートと市外の家電工場に勤めた、いずれも成績の良い(といっても学年で中ほどだったろう)2人の女の子だけであった。

卒業後1年ほどして「同窓会」が開かれて半数ほどの同級生が参加した。就職組も約半数参加していたが、卒業時に学校から紹介された就職先に勤め続けている子は見事に一人もいなかった。1年で既に「転職」経験者であった。私はなぜか「無理もない」という感想を持った。時は経済高度成長の入り口、世の中はなべて「拝金主義」(これについては今も、日本中のどこでも変わりがないが)、昭和30年代の中盤、ところは釡ヶ崎である。日常的に金銭に関するトラブルを聞かない日がない。

そんな時代に15歳の中卒だけが、徒弟制度に似たシステムの中で清貧に耐えて働き続けるわけはない。1年後の同窓会で、女の子のほとんどはキャバレーなどの水商売、男の子は参加者が少なかったが、パチンコ屋の店員かやくざの使いっ走りで働く子が多かった。

女の子たちはルージュの口紅と毒々しいマニキュアで、私たち優等生の高校進学グループを圧倒し、たくましさを誇っていた。私たち優等生グループが豊かであったわけではない。貧しい家計の中で、何とか進学費用をひねり出すのが親の苦労であった。私も育英会の奨学金やアルバイトで学費を稼ぎ、大学まで進んだ。

自分の親はともかく、世間では子どもの教育は、近い将来への投資であった。そんな中での進学だっただけに卒業後の就職へのプレッシャーは厳しかったはずである。客観的に見て少しはゆとりがあるように見えたのは「商売人」の息子や娘たちである。彼らはすぐに就職しなければならないほど経済的には切羽詰ってはいず、とりあえず商業科の高校などに進学し、後に親の商店などを引き継ぐのだが、彼らの苦労は後になって始まる。その話は後回しにすることにしよう。

そのころからの特異な存在は「医者の子ども」である。私が進学した高校は大阪市内南部にありいわゆる進学校であった。クラスには医者の子どもも多数いたが、目立った存在ではなかった。特に勉強のできる子どもはいず、高校生活をエンジョイしていた。ただ、高校卒業後数年たってから分かったことだが、彼らは何年か浪人をしても、必ずといってよいほど「医学部」に進学していた。

確かに、医師というのは「儲かる商売」らしく、進学や開業に多額な資金を投資してもわずか数年のうちに回収してしまうという話だった。医学部に進学して、医師になるというのは大部分の医者の子供たちにとって既定の方針らしく、しかもその信念は揺るがないのだった。私を含むその他の子どもにとって、進学後の職業観などよい加減なものだった。

貧乏人だった私は親の希望で一応は「法曹」を目指して国立大学の法学部に入ったが、入学後法律や社会の現状を知るに連れて、「法曹」の夢はあっさり捨ててしまった。医者になるという信念を捨てない子と、私のように法曹になるという夢をあっさり捨ててしまう子の、どちらが正しいのかは分からないが、とにかく浮世離れをした一群がいるのだということだけはわかった。

奈良県の田原本町の16歳の高校生が、自宅に放火して義理の母親と弟妹を死なせてしまったという事件は耳新しい。医者の息子で、県内有数の進学校に学び、国立大学の医学部を目指していたという。父親による厳しい進学指導に対する反発などが事件の背景にあるという。医者というのは立派な職業であるし、たとえ高収入を目指すとしても、本人が自らの意思で医学部を目指すなら、なんら非難をするのにあたらないと思う。しかし、高収入だから、安定した生涯を保証されるからといった理由で、親が職業選択を強制するとしたら、それは悲劇の始まりになるのではないか?

ところで、商業高校に進んだ自営業者たちの子どもはどうなったのであろうか?彼らが高校を卒業したのは昭和30年代も後半。すでにスーパーマーケットなどの全盛期。そのころは、自営業や小売業は斜陽期に入っていた。町のあちこちの小売業は開店休業状態の店が多く、彼らは高校を卒業するやサラリーマンに就職するか、大学進学に転進するものが多かった。高度成長の中で、企業は大成長し、求人は好調だった。親の自営業は大企業のスーパーマーケットや家電量販店などに顧客を取られ、商業高校で学んだ算盤や商業道徳なども役に立たなくなっていた。家業を継ぐに継げない時代になっていた。それが高度成長時代?

今も昔も「資源小国」である日本は、技術や情報で豊かになろうとするのは間違いではないだろう。大部分の家庭は、それほどの資産もなく、親たちは貧困の記憶も遠くなく、子どもたちに教育によって豊かになってほしいと願う気持ちはわかる。教育は本来、絶対的な目標を目指して精進するものだと思うが、実際には他人との比較や差別のみを目指してきたように思う。

就職にしても自分が、一生かけてどのように生きていくというよりも、目先の観点で「どちらが有利か」のみを考えて選択してきたと思う。これでは時代の波に飲み込まれて、常に貧乏くじを引いてしまうことになりかねない。結果的に誰でもができるフリーターのような仕事を転々とすることになりかねない。本当に好きなことを見つけること、選ぶことこそが大事である。時間をかけて考えてみてはどうだろう?

2006.07.05.

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