NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第160回 「心の空間」

By , 2006年5月29日 1:37 PM

かなり以前になるが、ニュースタート事務局のホームページの掲示板に異性への思いをつづる書き込みがあった。内容は必ずしも共感を誘うようなものではなかったが、ご本人は結構真剣そうで、確信に満ちた書き込みであった。書き込みのご本人は男性で、ご自分の異性に対する思いを綴っており、しかもその思いをかなり『神聖視』している様子の書き込みであった。

引きこもり支援の旗印を掲げている私たちニュースタート事務局としては、若者の細かい生態にも目が行く。その中で若者の恋愛行動には強い関心を持たざるを得ない。例外なしとはしないが、恋愛をするようになる、つまりは恋人が出来るようになると、殆ど引きこもり卒業といえる事態となる。

先ほどの書き込み者もそのことを知っているようで、ご自分の恋愛の成り行きはともかくとして、恋愛感情を持っていること自体に対しては誇りをもっているようで、堂々たる書きっぷりであった。しかし、他の読者には余り共感を与えなかったようで、レスポンスもあまりなかった。 初恋と言えば中学生時代と言う気がする。もちろん、もっと若いというか幼い、例えば幼稚園時代のほのぼのとした初恋というのもある。中学時代というと髭が生えたり、生理が始まったりで肉体的にも成熟してきて異性を意識する頃である。

ところで、引きこもりのきっかけになる不登校や人間不信も14,15歳、中学2,3年生頃から始まり、病院などでは『思春期内科』などの診療を受けることがある。初恋や引きこもりは『病気』ではないが『思春期病』の範疇に入れられても不思議は無い。あるいは『反抗期』特有の精神現象であるとも言える。 人が異性を恋する、好きになると言うことは、生理学・生命学の上からも説明できる。

人間は子孫を残すと言う課題の上からも、成熟すれば異性を恋するのであって、不思議なことでも、運命的な出会いでもなんでもない。しかし、10代や思春期の恋は必ずしも人の肉体的成熟や性愛には結びついておらず、しばしば相手に対する崇拝的な美化によるものが少なくない。

『愛』については古来『アガペー』と『エロス』に二分されていて、エロスとは肉欲的な愛や子孫繁栄を欲する愛を意味し、アガペーとは純粋に精神的な愛、プラトニックな愛を意味する。これはアガペーが上位の愛。エロスは下位の愛で、刹那的・衝動的な愛を意味するのではない。

ただ、キリスト教などによって宗教的な救い(愛)をアガペーと分類することによって、アガペーがエロスよりも上位に位置する『愛』と言う誤解が蔓延してしまったようである。それは、それで構わないのだけれど、若い人の中には、自分の中にある性欲を伴う愛を、いやらしい、汚らしい愛と誤解して、決め付けてしまい、素直な恋愛感情や慕情と言ったものを排除してしまう傾向にあるのは残念なことである。 青春文学や恋愛小説を見ていると、異性を美化する一方で、自分の感情を一方的に押し殺したり、煩悶の末に抹殺してしまったりすることが多い。残念なことである。

自分自身の経験で言うと、もちろん若い頃の恋は殆どがプラトニックな恋であった。自分自身の成熟を踏まえて、スタンダールなどを読み、人間の恋情の本質を知り、少しは恋愛観も変わったのだが、結局結婚に至る恋をするまでは、人を愛すると言うことは無かった。もっとも、27歳で結婚するまで、性愛とは無縁であったと言うわけではなく、ある意味で都合よくアガペーとエロスを使い分けていたと言えるのが実情である。 私の場合を、今の引きこもりの若者と見比べてみると、アガペーを含む結婚に至るような恋をするには、心に隙間が無かったような気がする。

女性をなんとなく好きになることはあったが、その愛を真面目に育てていくには、心にゆとりがなく、つまりその人への愛が棲みつくための心にゆとりの空間が無かったのである。  きれい事を言うわけではないが、その頃までの私は、自分の生きざまを、あるいは生きることの意味を考えるのに忙しく、美しい女性を見ても、好きになりそうな女性に会っても、その人の入り込む心の隙間がなく、わざと無関心を装っていたものである。遠くからじっと見つめているくせに、相手が気づいて振り向くと、わざと目をそらして知らない振りをする。これでは、恋が進展するわけは無い。最も、年月がたつと少しは成長したのか、目をそらすのが少し遅くなり、相手がその不自然な態度に気づくようになった。

引きこもりの若者は、自分の生きざまや、これからの人生のあり方に悩んでいる。恋人はおろか、異性も同性も他人が心に入り込む隙間など無い。他人が目に入らないわけではないが、まるで他の人間など無関心なように目をそらしてしまう。まるでうぶな中学生の初恋のありさまのようである。生きざまにゆとりがないから、他人を排除し、それが習い性になって対人不信になる。他人を受け入れる余裕があれば、友達を作ることも簡単だし、生きていくことの悩みを打ち明けることも出来るだろう。美しい年頃の女性と真面目そうな若い男性が出合うのを見ていると、ついつい老婆心ながら彼らが相思相愛の関係になってくれないかなぁと思うことがある。

ところが、彼らはそれぞれに心の悩みを抱えていて、互いの存在が眼中に入らないらしい。 一生懸命生きようとして悩みを抱えたり、引きこもったりする若者を見て馬鹿にすることは無い。しかし、必死になるまで真面目に考えたからと言って答えが見つかるとは限らない。むしろ自分の存在を先験的に肯定し、自分の願望や欲望に素直に従ってみてはどうか?異性に関心を持ち、異性を好きになるのは人間としての成長の証であり、それを抑制することが人間らしい行いであるとは限らない。

あなたの肉体的な成熟が特定の異性を恋する時、ためらわずにその赤い糸を手繰り寄せてみてはどうだろうか?もちろん、糸の先が相手につながっていないこともあるだろう。落胆することは無い。いずれ赤い糸がつながった相手を見つけることが出来るだろう。ただし糸を引く前に自問して欲しいことがある。若いからとか、経済的能力が整っているかとか、そんなことではない。 あなたの心に、最低ただ一人分の人が住む空洞(隙間)が空いているだろうか?

2006.05.24.

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