NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第149回 「岳父」

By , 2006年1月7日 4:20 PM

正月元旦は私も長男なので弟妹などの家族・親族などを待ち受ける。結婚したわが娘たちが新年の挨拶にやってくる。お正月の二日か三日には妻の実家を訪問することを常にしている。今年も正月二日に岳父に新年のご挨拶をしてきた。岳父は去年既に満95歳を迎えている明治43年の生まれである。さすがに超高齢、十年以上前から室内でも車椅子や杖が手放せない。今年は、私が脳梗塞を患い車椅子のお世話になっている。岳父にも、大変な心配をかけた。少しでも回復した姿を岳父に見せたいと妻の実家を訪れたのだが…。

岳父の姿を見てやはりショックを受けた。日ごろは車椅子や杖の姿に哀れみの同情を受けているわが身だが、やはり95歳というのは超高齢。杖に縋り付く岳父の姿は紛れもない超老人。若いと粋がるつもりはないのだが、やはり私などは一時的な病人、まだまだ回復の余地がある。 かねがね95歳になった岳父には敬意を表してきた。

『岳父』に敬意を表するなどと、わざわざ断る必要もないかもしれないが、なにしろ私と岳父とは一生をかけた『敵対』関係。彼の二女である妻とは、学生時代に事実上の同棲生活。結婚式も学生運動の真最中。望む婿であるはずがない。以来私は仕事に就かなかったわけではないが、一貫して反体制。彼のほうは町医者で、私と出会う前から地域の医師会長で当然ながら保守派である。単にイデオロギーの違いではなくて生き方の違いである。妻の実家を訪れる度に私は岳父である彼と政治論争を繰り返してきたのだ。

しかし二十年ほど前から論争は戦わずして私の負けとなった。ひとつは、そのころから私たちが主張してきた『世界革命』が展望を失ったこと、また同時に彼の長寿に私の戦う意欲が萎えて論争にならなかったことだ。こんな言い方をすると年寄り相手に論争を避けたようで失礼な言い方になるが、要するに彼の長寿に敬意を表して不戦敗を続けてきたのだ。

『95歳』とは相当な長寿だろう。私の母親は83歳まで生きたが、私の父親は60歳で死んだ。父親もそうであったが、私もそれなりの無頼漢であって酒飲みである。これまではせめて父親の年齢までは、と思ってきた。父親の死亡年齢を超えた私は、まさか脳梗塞などの病気に襲われるとは思っていなかったが、私も今は平均寿命くらいまではと思っている。

平均寿命は世界一と延びたが、この歳になれば事故や病気で若死にをする人もいるのだから平均寿命くらいは高望みではないと思っている。何しろその平均寿命を軽々と超えていきそうな岳父であるから『尊敬』し始めた。『長生きも芸のうち』という言葉があるが、文字通り古希も米寿も通り越して卆寿も過ぎた。

医師という職業から当然のことかもしれないが、そばで見てきて『健康』維持ということにかけては、その努力に心底から頭が下がる。その岳父にしてからが、病人の私が言うべきではないかもしれないが、私の脳梗塞病み上がりに比べても歩みが覚束ない。『年齢』には勝てそうにない。人間の生涯はせいぜい90年そこそこなのである。

さて、引きこもりであるが、引きこもりとて無為に人生をすごしているとは思わない。世俗の上昇志向勝負を捨てて、一見世捨て人のように、外出もせず、人とも会わずに過ごしているが、前半、ないしは序盤の人生を振り返っている。

このまま、人生を振り返らずに青春を通り過ぎてしまった人たちを数多く知っているが、少なくともその大半は凡庸な人生を、平凡に通り過ぎてしまった。一流大学、一流企業と呼ばれるところに入ったといわれる人においてである。60を過ぎた私とて、大して変わりがない。今頃になって人生を振り返っている始末である。だから15~6のころから引きこもって思索のときを過ごすのを無駄とは思わない。むしろ立ち止まって、考え始めたキミを見て慌てふためいている両親や周囲の人のほうが滑稽である。まるで若いときは周りを見回さず、全力疾走で走り抜けるのが人生マラソンのコツと信じ込んでいるようである。

親や先生が慌てふためく程度は良いが、引きこもったきり出てこないのは良くない。引きこもりの限度は何ヶ月間と決め付けることはできないが、せいぜい半年とか一年であろう。われわれのところに相談に見えるのは、5年、7年と経過した人はざら、中には『引きこもって10年』という人も珍しくはないのである。実際、引きこもり暦25年なんて人もいるのだから、いささか長すぎると思うのが常である。

3年5年と引きこもりを続けていれば、親に対して『引きこもる』理屈というものを述べる。何度もその理屈を繰り返しているうちに、その理屈が信念のようになって、自分でその理屈から脱却できなくなっているのである。こうなると、何が目的で引きこもっているのか分からなくなる。5年も10年も引きこもっていれば、今更引きこもりから出てくるということ自体、新たに人生をやり直すみたいで選択肢に入れられない。

こうなると、鬼ごっこをしていて、見つからないので他の子が鬼を探すのに飽きてしまったように、鬼はやがて自分から出てこざるを得ない。ただし、そのころには、その子が『引きこもり』であったことなど誰も忘れてしまっており、誰も歓迎などしてくれない。プライドを失い、上昇志向を失ったただのおじさんおばさんとして、人生半ばの路上に放り出されるだけである。

基本的にはめでたいことである岳父の長命のことを例示しながら、とんでもない『引きこもり』論になった。要するにいかに長命とはいえ、限りある人生である。現在61歳である私には、これから先の人生は分からないが、少なくとも平均寿命80年程度の人生でしかない。決してはかない人生とはいわないが、退屈している暇などない。ましてや引きこもって10年を無為に過ごしてしまうのは、あまりにももったいない。私には30歳で人生を終えてしまった敬愛する先輩がいる。40歳、50歳でかの病魔に襲われた先輩もいる。それぞれが充実した人生であったと思う。しかし反面彼らに後10年15年の人生が残されていたらと、悔しくてならない。

私たちは引きこもりから脱出させるのに100%有効な方法を持っているのではない。だから私たちの方法を押し売りすることはできない。ただ、ふとした心の歪みやちょっとしたボタンのかけ違いからこじれてしまい、10年も無駄に過ごしてしまう例を知っている。だから、そのかけがえのない人生を取り戻すために私たちの知っている方法を試してみることをお勧めしている。少なくとも、それをお勧めするために、私は残された数少ない人生を費やすことに悔いはないと定めている。

2006.01.07.

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