直言曲言 第142回 「一番知りたいこと」
何といっても不思議なのは、引きこもりのわが子(引きこもりに付いては男が多いとの定説があり異論があるが、この際話を簡単にするために男の子であるとする)の言う理屈が全く私には通じないことである。逆に私の理屈も、息子には全く通じない。従って、私と息子とは全くのコミュニケーションが通じない状態であり、あれ以来まったく口をきいたことがない。
私も息子も、変わり者であったり、知能が劣っているのであれば良く分かる。しかし、息子はクラスでもトップであったし、私も近所では評判の『良い奥さん』なのである。どうして私たちのあいだにコミュニケーションが成立しないのか?どうも息子と私のどちらかがおかしいのではないらしい。世の中には引きこもりというのがあり、親と子どもたちの間でコミュニケーションが成立しないという。それであるらしい。高校受験のときの志望校選びのときもそうである。公立普通高なのか私立の進学校なのか、あらゆる可能性を考えて選び、しかも最後は自分で選ばせているのに、まるで私が自分の好みで選びわがままで押し付けているかのようにいうなんて・・・。
それにしても亭主(父親)と息子の間では話が通じているらしい。少なくとも、そう見える亭主は息子と意見が合わないことについては諦めているらしく、それはそれで割り切っている。男と男の割り切りといおうか、『そんなこともあろうか』と引きこもりや対話拒否を認めているのである。息子の生き様について認めていないのは私と同じはずであるのに、日常的には折り合いをつけているのである。私と息子の間はそうは行かない。男性と女性の違いもある。『割り切り』などない。とことん、理性で追求しなければならない。理性で『理解』し合えるはずである。
息子の拒絶について考えてみた。私と息子の間といえば、重要なことではことごとく意見が合わない。合うのは、阪神タイガースとガンバ大阪の勝利についてだけである。だからタイガースやガンバが勝ったときにはハイタッチを交わす。それ以外は無言である。妻と息子の間ではいろいろと意見の交換があるらしい。しかし、究極的には意見は合わないらしい。不登校を続けていること、家から外出をしないことについては頑としていうことを聞かないらしい。妻もまた頑固である。結局、私たち親子3人の間は3者3様に頑固であり、話が通じないようである。
私たちが学生のころ、アメリカの心理学者『マズロー』は『欲望の5段階層説』というのを唱えて注目を浴びた。それによると欲望には『生理的欲求』から『自己実現欲求』までの5段階があって、低次元の欲求を満たす度に高次元に移って行くというものである。確かに妻と私が結婚したころは、社会もまだ貧しかった。『生存』という生理的欲求を満たすだけで大変であった。今やその世代のほとんどが『自己実現欲求』にいそしんでいる。
『食べる』という最低限の欲求は誰もが果たし、最高次の欲求という『自己実現欲求』の実現に努力する。最近の妻を見ていると、その『自己実現欲求』も終えて『他人』まで変えようとしているのではないかと思える。息子に対するあの執着はどうだ。亭主である私を変えられなかったからという、まるで当てこすりのように息子に執着しているようである。たとえ自分の息子であろうと、あそこまで自分の意のままに操ろうとするのはどうであろうか?あれでは、引きこもってしまおうとする息子の気持ちも分からないではない。ひょっとすると人類は豊かになりすぎて欲望の限界を突破してしまったのではないだろうか?
母親の何が鬱陶しいのかといえば、何もかも分かりきっているというあの態度である。父親も母親も同世代であるわけだが、団塊というのか、何ていうのか、あの世代は史上最大の豊かな世代であり、というか、豊かな経験をしていると思い込んでいる世代ではないのか?おそらく、実際にも史上初の豊かな経験をし、いろんな体験をしてきたから自信を 持っている。これ以上幸せな選択はないのだということに自信を持っている。全共闘運動を通じて左翼体験もしている。おそらくその挫折体験も。俺たちがどんな反論をしても言い返す。その程度の反論など、予め想定していた通りといわんばかりに反論し、グーの音も出ないばかりにやり込める。子どもたちは、親たちのいうことを聞いて生きていけばよいのだとばかりに私たちに選択肢を渡そうとしない。
そもそもわれわれの遺伝子というものが許さない。俺たちは反抗期なのだ。親たちの言うことを聞くだけでなく自分自身の生き様を探っていくのが使命なのだ。むしろ親たちとは異なる選択をしてでも自立の道を探らなければならないのだ。それを親たちは、お前の言うことはすべて分かっている。親の言うことを聞いてさえすればよいのだ。間違いはないのだとばかりに、すべてを押し付けてくる。これでは沈黙せざるを得ないではないか?遺伝子の反乱である。
父親と母親の役割分担は分かる。基本的には、同じ世代だから同じ価値観を持っている。しかし、父親の方は男だから意見の対立というのを知っている。沈黙が最大の拒否だということも知っている。拒否されれば後はどのようにして、和解しなければならないかも知っている。お互いの相違点にはあまり触れないことだ。母親のほうはそうはいかない。あくまでも、議論して説得しようとする。議論を信じているのだ。民主主義の申し子というべきだろう。
人と人との間には、相容れないこともあるのだ。理解できないこともあるのだ。そんなことが分からないのだろうか?引きこもりを奇病のように考えて、精神科へ行ってみたり、NEETという新語を考えて、われわれを新しい種族のように考えてみたり、それほど我々の拒絶が不思議なことなのだろうか?それほど彼ら世代の根底を揺るがすような出来事であるのだろうか?遺伝子の反乱のような目に見えない出来事は信じられないのだろうか?それほど彼らは目に見えるできごとばかりを信じてきたのだろうか?子どもたちが引きこもりになったからといって、別にあなた方の子育ての仕方が間違っていたわけではないのだ。むしろ何もかも間違いなく進めていこうとするあなた方の生き方が少しおかしいだけなのである。
2005.11.23.